バイブル・エッセイ(107)悔い改めの洗礼


  皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)

 洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「悔い改めの洗礼」とは一体何でしょうか。それは、高ぶりやいじけのためにでこぼこな自分を神の前に差し出し、ゆるしの力によって平らにしていただくことだとわたしは思います。
 神様の目に自分が今どう映っているだろうかと思い巡らしながら祈る「糾明の祈り」の中で、わたしは毎日自分のありのままの姿を見つめます。すると、ときにおごり高ぶった心を見つけることがあります。「このことについては誰よりもよく知っている。自分が正しいに決まっている」というような高ぶりの山から、怒りやいら立ちが噴き出しているのです。またあるときには、いじけて落ち込んだ心を見つけます。「自分はもうだめだ。どうせぼくなんか」というようないじけた思いの谷間を、無気力や絶望の闇が覆っているのです。
 そんな醜くゆがんだ自分の姿に直面し、心の底から「どうか神様、憐れんでください」と叫ぶとき、不思議なことが起こります。たちまち高ぶりの山は打ち砕かれ、いじけの谷は埋められて、安らぎの中で心が静まってゆくのです。でこぼこなわたしの心が、ゆるしの力によって平らにされてゆくのです。ごく日常的な体験ですが、これこそ「悔い改めの洗礼」の体験ではないかとわたしは思っています。
 少しのでこぼこもない平らな心で、イエスのご降誕をむかたいものです。イエスの愛が、何にも邪魔されることなく、わたしたちの心の隅々にまで行き渡りますように。
※写真の解説…滝壺に流れ落ちる冷水。六甲山にて。