マザー・テレサに学ぶキリスト教(19)洗礼と堅信

第19回洗礼と堅信
 今回から、カトリック教会が大切にしている7つの秘跡について説明していきます。7つの秘跡は、大きく言って3種類にけることができます。洗礼、堅信、エウカリスチアからなる入信の秘跡、ゆるしの秘跡と病者の塗油の秘跡からなるいやしの秘跡、結婚の秘跡と叙階の秘跡からなる交わりの秘跡の3つです。
 今日は、まず入信の秘跡の中から洗礼と堅信についてお話ししたいと思います。キリスト教への入信についてどう考えたらいいのかも、マザー・テレサの言葉などを参考にしながらお話しようと思います。
1.成人のキリスト教入信式の流れ
 まず成人がキリスト教に入信するときの流れを簡単に説明します。より詳しくは、カトリック中央協議会から発行されている『成人のキリスト教入信式』という冊子をご覧ください。
(1)入信準備制度
 成人洗礼が普通だった初代教会では、キリスト教の入信準備制度がしっかりと確立されていたようです。洗礼を希望する人は、一定の期間、要理を勉強したり、祈りや奉仕で教会に参加したりするよう指導されていました。
 ところが、キリスト教ローマ帝国の国教になって以降、洗礼と言えば幼児洗礼を指すようになりました。ローマ帝国の中で社会的評価を得させるという世俗的な動機を持つ人々も含めて、みなこぞって子どもに洗礼を受けさせるようになったからです。その結果、入信準備制度というものは廃れてしまいました。生まれてすぐの赤ん坊に要理教育をするわけにはいかないからです。それが復興されたのは、第二バチカン公会議のときです。第二バチカン公会議以降、成人洗礼の場合の入信準備制度が再び整備されていきました。
(2)入信式の三段階
①求道期…入門式から洗礼志願式までの期間を求道期と呼びます。長さは人によってずいぶん異なりますが、最低でも数カ月は必要とされます。
②洗礼準備期…洗礼志願式から入信の秘跡を受けるまでの期間を洗礼準備期と呼びます。通常、四旬節第一主日に洗礼志願式が行われ、復活徹夜際に入信の秘跡が行われますから、洗礼準備期はおよそ40日間ということになります。
③入信の秘跡直後の期間…復活徹夜際に入信の秘跡を受けてから、聖霊降臨までの期間です。この期間、教会共同体、代父母、司祭は、新しく洗礼を受けた方々が教会の中で自分の居場所を見つけ、共同体に溶け込むことができるように全力を尽くします。新しく洗礼を受けた方々のために、御ミサのときに特別な席を設けること、代父母が必ず隣の席に座ってミサに出ることなどが勧められています。
 洗礼を受けるとすぐに教会から離れていく人がとても多いという現状をかえりみたとき、この期間の重要性はどれほど強調してもしすぎることがないと思います。なにより大切なのは、新しく洗礼を受けた方々と共同体との密接な絆を作り出すことでしょう。
(3)入信準備の期間
 どんなに短くても半年くらいの期間が必要です。人間が心と体でキリスト教の教えを受け入れ、自分の人生の核にしていくためには、どんなに短くても半年は必要だからです。
 古代の伝統では、入信のために3年の準備期間を設けていました。現在、主日の聖書朗読がA年、B年、C年の3年サイクルで聖書全体を読んでいくのは、その名残と言えます。3年間毎週ミサに来て朗読と説教を聞くと、聖書の全体像がつかめるようになっているのです。
(4)入信の秘跡の時期と場所
 特に重大な理由がない限り、入信の秘跡は、教会の時間の流れの中で1年間の頂点となる復活徹夜祭の御ミサの中で、共同体との一致のうちに行われるべきとされています。教会共同体が新しい仲間を迎え入れるのに、それ以上ふさわしい時と場がないからです。
2.洗礼
 入信の三秘跡の中で、最初に行われるのは水による洗いの儀式です。この儀式はどのような意味を持っているのでしょうか。
(1)なぜ水を使うのか?
 仏教や神道でも、水は人間の汚れを清める力を持つと考えられているようですが、キリスト教でも水は罪の清めのシンボルと考えられています。しかし、キリスト教では水にそれ以上の意味も込められています。キリスト教で水は、罪の清めだけでなく、いのちと豊かさのシンボルなのです。
 イスラエルの救いの歴史の中で神様は、たびたび水を通して人間を救われました。ノアの洪水で生き延びた人たち、出エジプトの旅の中で海を無事に渡り切り、エジプト兵の追跡を逃れた人たち、ヨルダン川を渡って約束の大地に入った人たち、彼らは水を通していのちを与えられ、救われたと言えます。それゆえ、キリスト教で水はいのちのシンボルとされるのです。
 洗礼式では、罪のゆるしと新しいいのちのシンボルとして水が使われます。
(2)キリストの洗礼
 洗礼について考える時に難しいのは、洗礼者ヨハネがキリストに授けた洗礼と、後にキリスト教秘跡として確立した洗礼がどのような関係にあるのかということです。
①なぜキリストは洗礼を受ける必要があったのか?
 ヨハネの洗礼は、罪のゆるしと悔い改めのシンボルだったと考えられています。ならば、罪のないイエス・キリストがなぜヨハネから洗礼を受ける必要があったのでしょうか。
 それは、イエスがご自分を罪深い人間と同列にならべ、ご自分をまったく他の人間と同じものにするためだったと考えられます。イエスは、人類の救済という神から与えられた使命を果たすため、ご自分を無にして罪人と同じ列に並ばれたのです。ご自分を無にしたイエスに、神は聖霊の恵みを豊かに注がれました。
キリスト教の洗礼はイエスに由来するのか?
 マタイ福音書28章にはイエスが弟子たちに洗礼を授けるよう命じる言葉がありますし、ヨハネ福音書の3章には、イエス御自身が洗礼を授けていたという証言があります。それゆえ、伝統的に洗礼の秘跡はイエスにまでさかのぼると考えられています。
 さらにイエスは、いくつかの場面でご自分が受けることになる「洗礼」に言及しています(マルコ10:38、ルカ12:50)。この「洗礼」という言葉は、イエスが将来受けることになる苦しみ、すなわち十字架上での死を意味していると考えられます。イエスにとって洗礼とは、全人類の救いのために十字架上で自分のいのちさえも神に捧げ、復活の栄光にあずかることだったのです。それゆえ、キリスト教徒は洗礼を受けることで、イエスの十字架上の死、そして復活の栄光に与ることができると信じています。
 単に罪を洗い清めるための儀式だった洗礼は、その洗礼を受けたイエスが十字架上で死に、復活したことによって質的にまったく異なった儀式になったと言えるでしょう。
(3)洗礼の恵み
 では、洗礼の秘跡に与ることで、わたしたちはどのような恵みを受け取るのでしょうか。
①罪のゆるし…まず、わたしたちは洗礼を受けることで、生まれながらに背負っている原罪とそれまでに犯してきたすべての罪(自罪)を取り除かれます。ただし洗礼を受ける前に罪の影響を受けながら形成された性格や、本能的な情欲などは残りますから、洗礼を受けた後でも罪を犯す可能性はあります。
 洗礼を受けてから犯した罪は、「ゆるしの秘跡」によって赦していただくことができます。「ゆるしの秘跡」によって、わたしたちは何度でも洗礼直後の清らかな状態に戻ることができるのです。その意味で「ゆるしの秘跡」は「第二の洗礼」とも呼ばれます。
②新しい誕生…洗礼は、罪にまみれた古い自分の死と、イエスのいのちによる再生という意味も持っています(ローマ6:1-14)。洗礼によって罪に死に、イエスの十字架上の死に与ることで、わたしたちは復活のいのちにも与ることができるのです。新しいいのちを与えられたわたしたちは、それまでよりも力強く神を信じ愛することができるようになります。イエスの復活のいのちに生きるとは、聖霊の恵みに満たされて、イエスとの一致のうちに生きるということを意味しています。
③教会との一致…受洗者は、洗礼式を通して教会の仲間たちによって心から歓迎され、教会の新しい仲間として受け入れられます。これは、もっともはっきりした目に見える恵みと言えるでしょう。教会の仲間たちから愛されることで、わたしたちは神から愛されるとはどういうことなのかを知ることができますし、また教会の仲間たちを愛することで、神を愛するとはどういうことなのかを知ることができるのです。
(4)洗礼と救い
 「洗礼を受けなければ救われないのか?」という質問に対する答えは、はっきりとNOです。秘跡によって拘束されることのない神は、洗礼以外の方法でも人類を救われるからです。教会の伝統は、洗礼を受けていないけれどもキリストへの信仰を守るために死んだ人は、その死によって洗礼を受けたことになると教えていますし(「血の洗礼」)、洗礼を望んでいながらやむをえない事情で洗礼を受けられずに死んだ人にも洗礼の恵みと同じ恵みが与えられると教えています(「望みの洗礼」)。
 さらに、第二バチカン公会議の現代世界憲章は、キリストの死と復活の神秘について以下のようにはっきりと述べています。
「このことは、キリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。事実、キリストはすべての人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘儀にあずかる可能性をすべての人に提供することを信じなければならない。」
 つまり、洗礼を受けていない人たちも、神様の測り知れない恵みによって救われる可能性があるのです。わたしたちは、このことを信じなければなりません。
(5)なぜ洗礼を受けるのか?
 洗礼を受けなくても救われるのならば、なぜ洗礼を受ける必要があるのかという疑問がわくかもしれません。この疑問についてわたしは、そもそも問いの立て方自体が間違っていると思います。
 洗礼は必要に迫られて受けるものではなく、神様に導かれて受けさせていただくものだとわたしは思います。洗礼は、受けないと地獄に落ちるからという強迫観念にとらわれて、いやいや受けるようなものではありません。イエス・キリストとの出会いを通して与えられた神様の恵みに心を揺さぶられ、聖霊に導かれて受けさせていただくものなのです。イエス・キリストと出会い、そのあとについて行った弟子たちのように、救い主と出会った喜びに突き動かされて洗礼を受けるのです。
 マザー・テレサは、死の床にある人たちを脅かして洗礼を受けさせるようなことは絶対にしませんでした。彼らが、シスターたちとの出会いを通してイエスの愛に触れながら死んでいくことができるなら、それで十分と考えていたからです。死の床にある人々の中には洗礼を希望する人もいましたが、それは脅かされたからではなく、彼らが死の床でシスターたちを通してイエスの愛と出会ったからでした。「信仰は、わたしたちが強制するものではなく、神様が与えてくださるものです」とマザーは言っています。信仰は、イエスの愛がわたしたちに与えてくれる贈り物なのです。
 神様は、わたしたち人間を深く愛し、その愛を示すためにイエス・キリストを地上に送り出しました。さらに、イエスによって教会を立て、わたしたちを愛の交わりへと招いておられます。洗礼を受けるかどうかは、必要かどうかという問題ではなく、この神の愛に答えるか、神の慈しみ深い招きに応じるかという問題だと思います。
(6)なぜ福音宣教するのか?
 洗礼を受けなくても救われるならば、なぜわたしたちは福音を人々に伝えようとするのでしょうか。その答えは、パウロの次の言葉に要約されています。
「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(Ⅰコリント9:16)
 わたしたちは何かいいことがあると、それを人に話さずにはいられなくなります。例えばいい化粧品を見つけたくらいでもそうなるのですから、まして自分の人生の救いに直結するような出来事を人に話さずにはいられないのです。話さなければ、不幸だと言ってもいいくらいです。
 マザー・テレサは、福音宣教の動機を次のように語っています。
「わたしが生きている宗教、それに従って神を礼拝している宗教はカトリックです。わたしにとってこれはまさに人生そのものであり、わたしの喜びであり、神が愛のうちにわたしに与えてくださったものの中でもっとも大きな恵みなのです。
 わたしは人々をとても愛しています。自分のこと以上に愛しています。ですから、当たり前のこととして、わたしはこの宝を持つ喜びを人々にも与えることができたらと思うのです。」

 喜びに満たされる体験は、その喜びを周りの人々にも伝えたいという思いをわたしたちの心に引き起こします。その思いこそが、福音宣教の出発点だと言えるでしょう。
(7)救われるために教会所属が必要なのか?
 洗礼を受けて教会に所属しなくても、聖書を通した個人的な神との交わりだけで救われるのではないかという考えの人もいます。そう考える人は、どうも男性に多いようです。
 確かに、理屈で考えるとそのような救いもありうるようです。しかし、わたしたち人間はただ文字を読んで考えたり、一人で祈ったりするだけで救いの恵みを実感できるのでしょうか。ミサの中で共に感謝の祈りを捧げ、教会の仲間たちと互いを受け入れあいながら共に生きていく中でこそ、わたしたちは神の恵みを全身で受け止めることができるのではないでしょうか。
エスの愛や共感も、それを生きている人たちとの出会いの中で自分が体験しない限り実感することは難しいでしょう。例えば、懸命に祈りを捧げ、人々を温かな微笑みで迎えるおばあさんとの出会いが、わたしたちにイエスの愛を実感させてくれるというようなこともよくあります。
 人間は、人間の交わりの中でしか救いを実感できない存在なので、救われるためには教会に所属するのが近道だろうというのがわたしの結論です。
(8)いつ洗礼を受けたらいいのか?
 洗礼を考え、ある程度準備を進めてきた人から「どのタイミングで洗礼を受けるのがいいでしょうか」と聞かれることがあります。わたしは「ミサに出たり教会の人たちと交わったりすることが、義務ではなく、自分の人生にとってなくてはならない恵みだと思えるようになったとき」と答えるようにしています。イエス・キリストは好きだけれど、ミサに出ることや教会で仲間たちと交わることが苦痛だという場合は、まだ洗礼を受ける機が熟していないのだとわたしは思います。
3.堅信
 次に、洗礼の次の段階としての堅信についてお話ししたいと思います。
(1)なぜ洗礼式と別れたのか?
 初代教会において洗礼と堅信は1つの儀式の中で行われていましたし、古代の伝統を復興した現代の教会でも1つの儀式の中で行われています。なぜ、洗礼式と別に堅信式を行うという習慣が生まれたのでしょうか。
 その理由は、4世紀頃から幼児洗礼が急激に増加したことにあると言われています。それまで、洗礼式は復活徹夜祭に司教によって執り行われるものでしたが、幼児洗礼式は復活徹夜祭以外のときに小さなグループで行われることが多かったため司教がいちいち出かけていくことができませんでした。そこで次第に、個別の洗礼式は司祭が行い、堅信式は後で一箇所に集めて司教が行うという形式が確立していったようです。
(2)堅信式の時期
 成人洗礼の場合、堅信は原則として洗礼式と一緒に行われます。ただし、わたし自身の場合のように成人洗礼でも洗礼式で堅信をを受けず、堅信式を別に受けたという人もいます。司祭の中には、洗礼を受けた人がそれだけで満足して教会から離れていくことがないようにという司牧的な配慮から、洗礼式のあと十分な期間をおいて堅信式を受けるように勧める方もいらっしゃるからです。
幼児洗礼の場合、教会法上7歳が堅信の年齢ですが、日本では司教団によって10-15歳が堅信にふさわしい年齢とされています。実際は、13-14歳くらいで行われることが多いようです。
(3)洗礼と何が違うのか?
 堅信式では、使徒行伝(2章)に出てくる聖霊降臨の出来事と同じように、はっきりした形で聖霊が受堅者に下ると言われています。洗礼においても聖霊の恵みは完全に与えられますが、堅信においてはその恵みがよりはっきりした形を伴って確認されるのです。そのことを、「洗礼の恵みの完成」と表現することもあります。堅信を受けた人は、そのことで「キリストの兵士」になると言われることもあります。わたし自身、カルカッタで堅信を受けた時にマザー・テレサから「今こそあなたは完全になりました。キリストの兵士になったのですよ」と言われました。