余談(10)『ヒンドゥー教』2冊

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)

ヒンドゥー教 (講談社現代新書)

ヒンドゥー教 (講談社現代新書)

 インドから帰って以来、ヒンドゥー教というのはどうも不可解な宗教だという思いが強くあった。あれほど多様な神々がおり、宗教的実践がまじりあう中で、一体どこに宗教としての共通点があるのか、キリスト教的な宗教観からは理解しがたかったからだ。だが、この2冊の本を読んで「なるほど、そうか」とある程度まで納得することができた。
 そもそもヒンドゥー教には、共通の教義というものがないらしい。これは、「使徒信条」などに表現された共通の教義を土台として一致するキリスト教から見ると驚異的なことだ。では、一体何がヒンドゥー教を一つの宗教として結びつけるのか。どうやらそれは、根本的な世界観であるようだ。ヒンドゥー教徒は誰もが輪廻転生ということを信じ、最終的に解脱して神と一致することを目指している。解脱の向こうにあるのは「凡我一如」、つまり、もはやわたしと宇宙の間に区別がなく、わたしが宇宙であり、宇宙がわたしであるような境地だ。
 その境地に至るまでの実践には多様なものがある。ある人はガンジス河のほとりでヨガ三昧の日々を送ることによって、ある人は貧しい人々への無私の奉仕によって、ある人は特定の神への熱烈な帰依によって、ある人は経典の徹底的な研究によって、それぞれ究極目的である「凡我一如」の境地を目指している。どのような形をとっていたとしても目指しているところは一つであり、それが多様な宗教的実践をヒンドゥー教という一つの宗教に結び合わせているのだ。それぞれの実践は、「凡我一如」という同じ頂上にたどり着くための道のようなものらしい。その意味では、無数に神がいたとしてもヒンドゥー教は究極的に一神教だという主張さえ成り立つ。
 彼らにとってみれば、仏教やキリスト教も、解脱に到達するための一つの道である限りヒンドゥー教の一部になりうるのだろう。真実なものはすべて自分の中に取り込みながら成長し続けていく形のない宗教、それがどうやらヒンドゥー教というものらしい。まったく恐るべき宗教だ。