マザー・テレサに学ぶキリスト教(20)エウカリスチアの秘跡①

第20回エウカリスチアの秘跡 
 マザーは、ミサとご聖体について次のように語っています。
「ミサは、わたしを支えている霊的な糧です。ミサなしでは、わたしは人生の1日も、あるいは一時も過ごすことができなかったでしょう。ご聖体のうちに、わたしはキリストをパンの形で見ます。スラムでは、キリストを貧しい人々の心痛む姿の中に見ます。傷ついた体、子どもたち、そして死にかけた人々の中にです。だからこそ、わたしはこの仕事ができるのです。」
 マザーがこれほどまでに大切にしていたミサ、そしてご聖体は一体何なのでしょうか。今回は、カトリック信仰のまさに核心に触れるこのテーマについてお話したいと思います。

Ⅰ.エウカリスチアの秘跡とは何か
1.御聖体と御ミサ
 洗礼式・堅信式に続けて、御聖体をいただくことがキリスト教入信プロセスの中心です。エウカリスチアの秘跡の中心をなすのは御聖体であるため、この秘跡を「御聖体の秘跡」と呼ぶこともあります。しかし、ただ「御聖体の秘跡」と呼んでしまうと、キリスト御自身の目に見えるしるしである「御聖体」を通して恵みが与えられることだけが秘跡の内容であるかのような誤解が生じかねません。
 この秘跡の中心が御聖体であることは間違いありませんが、パンとブドウ酒がキリストの体と血に変えられる儀式としての御ミサもこの秘跡の中に含まれます。広い意味では、御ミサ全体もエウカリスチアの秘跡と呼ばれるのです。御聖体をいただくだけでなく、御ミサの中で司祭と会衆が共に神を賛美し、イエスを思い起こし、犠牲を捧げ、イエスの食卓につくというしるしを通して恵みが与えられることもこの秘跡の内容なのです。
 そもそも、エウカリスチアという言葉は、「感謝の祈りを唱える」という意味のギリシア語エウカリステインに由来しています。御ミサの中で共に感謝の祈りを唱えることこそ、まさにエウカリスチアなのです。

2.エウカリスチアの秘跡の意義
 エウカリスチアの秘跡は、すべてのキリスト教的礼拝の頂点であり、キリスト教信仰の要約であると言われます。7つの秘跡の中でも最高の秘跡と見なされ、「秘跡中の秘跡」と呼ばれることもあります。なぜこの秘跡はそれほどまでに大切なのでしょうか。今回は、記念、現存、食事、犠牲、感謝という5つの言葉をキーワードにして考えてみたいと思います。
(1)キリストの記念
①イエス御自身の言葉
 弟子たちとの最後の食事の席で、イエスはパンとブドウ酒を弟子たちに分け与えた後、「これをわたしの記念として行いなさい」(ルカ22:19,1コリ11:24)とおっしゃいました。エウカリスチアの秘跡は、この言葉を実行し、イエス・キリストを記念する秘跡だと言えます。
 記念という言葉は、当時のユダヤ教文化の中で特別な意味を持った言葉です。記念するというとき、それは単に思い出して祝うというような意味を越えて、あることを絶えず思い起こし、目の当たりにしているかのように忘れないことを意味しています。イエス・キリストの生涯、とりわけ御受難と復活を今まさに目の前に起こっているかのように鮮明に思い起こすことによって、神の恵みをはっきりと感じる秘跡、それがエウカリスチアの秘跡なのです。
②「主の晩餐」
 イエスを記念する食事会としての「主の晩餐」(1コリ11)は、紀元40年頃、すなわちイエスの死後間もない頃から行われていたと考えられます。当初、弟子たちはユダヤ教安息日の前夜、すなわち金曜日の晩に集まって食事会をしていました。この食事会から実際の食事が切り離され、記念の儀式として発展したのが今日の御ミサだと考えられています。
(2)キリストの現存
①御聖体における現存
 弟子たちとの最後の食事の席で、イエスはパンをご自分の体、ブドウ酒をご自分の血と宣言されました(マタイ26:26-27等)。これが、イエス御自身による御聖体の制定です。この出来事から、イエスを記念する食事の席でイエスの言葉を繰り返しながらパンを裂き、ブドウ酒を飲むとき、そこにイエスの体と血が現存するという信仰が生まれました。この出来事によって、わたしたちは御聖体というしるしにおいてイエス・キリスト御自身と出会い、イエス・キリスト御自身と共にいる恵みを与えられたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)というイエスの約束は、エウカリスチアの秘跡の中で最もはっきり実現したと言えるでしょう。
②実体変化の教え
 イエスの言葉を繰り返し、聖霊の恵みを願うことでパンとブドウ酒がイエスの体と血に変化するという教えは、実体変化の教えと呼ばれてきました。御聖体と御血は、聖変化の後も外見や成分ではパンとブドウ酒のままだけれども、その実体においてイエスの体に変化しているという教えです。実体と言うのは、目に見えない本質のようなものです。御聖体と御血は、単にイエスの体と血を思い出すためのシンボルなのではなく、実体としてイエスの体と血そのものだというのです。
 難しい教えですが、外見はパンであっても、その中身にはイエスの愛と命が隅々まで満ちている。だから、外見にかかわらずご聖体はイエスの体なのだとわたしは理解しています。イエスの愛と命を全体に宿しているもの、それをわたしたちはイエスの体と呼ぶのです。
 司祭と会衆が心を合わせて祈るとき、聖霊の恵みがパンとブドウ酒を満たし、パンとブドウ酒をイエスの愛と命に満ちたイエスの体に変えてくださいます。聖霊がマリアを覆ったときにイエスが受胎したことを思い起こせば、これは少しも不思議なことではありません。
③御聖体への信心
 実体において完全にキリストの体、すなわち神の体に変化した御聖体に最高の敬意を払うため、中世の頃たくさんの信心が生まれました。御聖体を手で取るのではなく、口で受けるという習慣もこのころ生まれたものです。現在はほとんど行われていませんが、受けた御聖体を噛んではいけないというような信心も生まれました。
 御ミサと離れて御聖体を礼拝する習慣も、この頃に生まれました。実体としてキリストの体に変化した以上、御聖体は御ミサが終わってもキリストの体であり続けますから、そのようなことも可能なのです。聖体降福式や聖体行列などの信心業は、こうして生まれたのです。
 マザーは、自分たちが貧しい人々に奉仕できるのは「ご聖体の『いのちのパン』から来られるキリストと結びついている」からだと述べたうえで、次のように人々に勧めています。
「わたしがあなたたちに勧めたいことは、生活の中で、少なくとも週に一度はご聖体の前に行き、そこでイエスだけと共にとどまるようにしなさいということです。
 そうすればあなたたちは、あなたたちの心が求めてやまない、力と喜びと愛を見つけることができるでしょう。」

 ご聖体の前で祈ることができるのは、カトリック信者に与えられた大きな恵みだと言えるでしょう。
(3)キリストとの食事
①どんな食事なのか
 エウカリスチアの秘跡は、次の2つの意味でイエスと共にする食事だと考えられます。
鄯.「最後の晩餐」の再現
 エウカリスチアの秘跡は、イエスと弟子たちの最後の食事、すなわち「最後の晩餐」の再現だと考えられます。十字架に付けられる前、イエス出エジプトを記念する「過ぎ越しの食事」の形式にのっとって弟子たちと一緒に食事をし、そこでエウカリスチアの秘跡を制定しました。御ミサは、この食事の再現なのです。
鄱.天上のエルサレムにおける「子羊の婚宴」の先取り
 エウカリスチアの秘跡は、黙示録19章に出てくる天上のエルサレムでの子羊の婚宴の食事、すなわち世の終わりに行われるイエス・キリストの婚宴の食事の先取りだと考えられます。イエスに従って生きた人はすべて、世の終わりにこの婚宴に招かれますが、そのことを先取りする食事が御ミサなのです。
 いずれにしても、イエスと、そして信仰の上での兄弟姉妹たちと一緒に食事をするというしるしを通して神様の恵みをいただくのがエウカリスチアの秘跡だと言えるでしょう。
②食事であることの意味
鄯.共同体性の現れ
 食事をすることで、わたしたちは自分がイエスと、そして御ミサに出ているすべての人と仲間であることを体験できます。現代の日本でもそうですが、食卓は当時のイスラエルでもお互いが仲間であることを認め、お互いの絆を深めあう場でした。
鄱.分かち合いの場
 食卓で同じ食べ物を分かち合うということにも深い意味があります。同じ食物で養われるとき、わたしたちの絆は一層深いものになります。「同じ釜の飯を食う」というようなことです。
鄴.交わりの場
 食卓としての御ミサは、本当に多様な人たちの交わりの場です。子供も、青年も、壮年も、御婦人も、お年寄りも、すべての人が同じ食卓を囲んで交わるのです。貧富の差も、世間的な地位も、健康状態も、この交わりの中では何の意味も持ちません。すべての人がイエスの前で、まったく同じ「神の子」として交わるのです。
(4)キリストの犠牲の再現
①キリストの犠牲に与る
 イエス・キリストの体と血を神様にお捧げすることで、御ミサはイエスの十字架上での自己犠牲を再現していると考えられます。十字架上でイエスはご自分のすべてを神様に差し出しましたが、御ミサの食卓でも同じことが実現しているのです。御ミサに参加するわたしたち信者は、イエスの犠牲に心を合わせて自分たち自身の人生を御ミサの中で神様にお捧げします。エウカリスチアの秘跡は、イエスの体と血の奉献というしるしを通して、わたしたち自身の人生をも神様にお捧げする恵みなのです。
②犠牲は必要なのか?
 果たして、神様はわたしたちの犠牲を必要とするのでしょうか。神は、わたしたちが犠牲を捧げなければわたしたちを救ってくださらないのでしょうか。これは大きな疑問です。
 わたし自身は、経験上、救いのために自己犠牲は絶対に必要だと考えています。神の怒りをなだめるために犠牲が必要だということではなく、神と一致するためには神のために自分の思いを乗り越えていくことがどうしても必要だと思うからです。神のために自分がしたいこと、ほしいものなどをあきらめ、犠牲として捧げるとき、わたしたちは神の愛により深く触れることができるのです。
なお、日本では今のところ、奉納祈願の後の「神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために司祭の手を通してお捧げするいけにえをお受けください」という祈りが任意になっています。これは、「いけにえ」という考え方が日本人になじみにくいことへの配慮だそうです。今後は、「いけにえ」という言葉を日本の信徒にも正しい意味で伝えていく必要があるでしょう。
(5)父なる神への感謝
 エウカリスチアの秘跡によって、わたしたちは父なる神の創造の恵みと救いの業に感謝し、父なる神を賛美します。奉献文の最後で「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は世々に至るまで」という祈りが唱えられますが、この祈りが示しているとおり、御ミサの中でわたしたちはキリストによって、キリスト共に、キリストのうちに神に感謝し、神を賛美するのです。聖体をいただくことによってだけでなく、神に心からの感謝を捧げる中でも、わたしたちはイエスと一つに結ばれるのです。あらゆる意味で、ミサとはイエスと一つに結ばれることだと言えるでしょう。