バイブル・エッセイ(114)「最初のしるし」と「最後のしるし」


 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:1-11)

 水がぶどう酒に変わるというのは確かにすばらしい奇跡ですが、わたしたちはこれからミサの中でもっと驚くべき奇跡を見ることになります。ミサの中でイエスは、ぶどう酒をご自分の血に変えるのです。
 福音宣教のはじめにイエスは、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。それは、神の愛が人々共にあること、神が人間を祝福していることを示す「最初のしるし」でした。やがて時が満ちると、イエスはぶどう酒を自分の血に変えるという奇跡を行いました。それは、神の愛の極みである十字架によって救いの業が完成し、もはや神と人との交わりは決して損なわれないということを示す「最後のしるし」でした。
 「最後のしるし」の中には、イエスの愛が全て凝縮されています。この究極のしるしを、わたしたちはミサの中で目撃するのです。わたしたちはそのことに気づいているでしょうか。ミサに慣れてしまい、奇跡を当たり前のことのように見過ごしていないでしょうか。慣れによって曇ってしまった目をしっかりと開き、これから起こる奇跡を神の愛のしるしとして心からの驚きをもって受け止めたいものです。
 水がぶどう酒に変わる奇跡によって弟子たちがイエスを信じたのなら、それをはるかに上回る奇跡を見るわたしたちがイエスを信じるのは当然のことでしょう。ミサという奇跡に込められた神の愛を全身で受け止め、心から神を信じる者になっていきたいと思います。 
※写真の解説…生田川上流にて。