マザー・テレサに学ぶキリスト教(24)苦しみのキリスト教的意味

第24回苦しみのキリスト教的意味
 今回は、苦しみに一体どんな意味があるのか、なぜ神はわたしたちに苦しみを与えるのか、そのことについてヨハネ・パウロ2世の書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』とマザー・テレサの言葉を手がかりにして考えてみたいと思います。

1.イエスと共に苦しむ
(1)イエスと共に十字架を担う
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)
「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。」(Ⅰペトロ4:13)

 これらのパウロの言葉は、病苦の中にある人々に希望を与えるかもしれません。イエス・キリストを十字架上で一人ぼっちで苦しませておくのはかわいそうだと思い、自分もイエスと共に十字架の苦しみを味わいたい、イエスの苦しみを共に担いたいと願いながら病苦を神に捧げるとき、わたしたちは必ず復活の栄光と喜びにも与ることができるでしょう。
(2)贖罪の神秘に与る
「キリストは、罪の中に含まれる悪、すなわち『神に背を向ける悪の「全容」を正しくわきまえ』、御父と御子の一致の神的深みを通し、人間的には表現できない方法で、『御父からの別離、御父に見捨てられること、御父なる神から関係を断たれる苦しみ』を受けました。しかし、まさにこの苦しみによって、キリストは贖いを完成されました。」(ヨハネ・パウロ2世
「苦しみはそれ自体として意味を持ちません。キリストと共に苦しまれたとき、初めて意味を持ちます。」(マザー・テレサ)

 キリスト御自身、激しい肉体の痛みの中で神から見捨てられたような苦しみを味わいました。しかし、その苦しみは復活のできごとを通して贖罪という意味を与えられました。キリストの苦しみは、全人類を救うための苦しみだったのです。これは人間の理解を越えた神秘ですが、キリスト共に苦しむとき、わたしたちはそれが事実であることを体験によって悟ることができるでしょう。

2.全人類のために苦しむ
(1)苦しみが善を生む
「人間の苦しみは、キリストの御受難において頂点に達しました。同時に苦しみは新しい次元に入りました。つまり、『苦しみは愛に結びつけられるようになりました』。愛は善をつくり、苦しみによって善を引き出します。ちょうどそれは、世の贖いという最高善が、キリストの十字架から引き出されたということ、しかも絶え間なく、その十字架から最高善が流れ出しているのと同じです。」(ヨハネ・パウロ2世
「苦しみそのものは悪の体験です。しかし、キリストは、苦しみを決定的な善、すなわち永遠の救いという善の最も堅固な基礎とされました。」(ヨハネ・パウロ2世

 キリストによって、苦しみは善の源となりました。わたしたちの理解を越えたしかたで、神は苦しみを善に変えられたのです。
「キリストは、苦しみの理由を抽象的に説明なさいません。かえって、まず『わたしに従ってきなさい』と言われます。来なさい。あなたの苦しみを通して、世界を救う仕事に参加しなさい。わたしの苦しみによって達成されたあの救済の業に。わたしの十字架を通して。」(ヨハネ・パウロ2世
 この神秘を言葉で説明しつくすことはできません。神学者たちが何万冊の書物で説明しようとしても、決して説明しつくすことはできないでしょう。しかし、病者たちはこの神秘を自分自身の体験によって悟ることができます。イエスと共に十字架の苦しみを担うとき、病者たちはそれが全人類を救うための使命に他ならないということを全身で悟るのです。これは、大きな恵みだと思います。イエスと共に苦しまれた苦しみだけが、苦しみの本当の意味、イエスによる救いの本当の意味を教えてくれるのです。
(2)共に贖う
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コリント1:24)
「罪のない人々の苦しみは、イエスの苦しみと同じです。イエスはわたしたちのために苦しみました。罪のない人々の苦しみもまた、イエスの苦しみと結びついてわたしたちを贖うのです。それは、『共贖』とさえ言えます。その苦しみは、世界をもっと悪い状態から救うのです。」(マザー・テレサ)

 これらの言葉は、病者の苦しみが彼らに与えられた大いなる使命であることを教えてくれます。イエスと共に苦しみを担うとき、病者たちはイエスと共に全人類を救っているのです。
3.苦しんでいるすべての人々と共に苦しむ
「苦しみの世界は、それ自体が連帯を持ちます。苦しんでいる人は、似たような苦しみの状態を通して、また理解されることと世話を受けることを通して、お互いが同類になります。特に苦しみの意味を問い続けることによって似たものとなります。」(ヨハネ・パウロ2世)
 病苦の中にある人々は、自分と同じ苦しみを持った人々と連帯することができます。出会うことはなくても、苦しみにおいて病者たちは一つに結ばれることができるのです。自分だけが苦しんでいるわけではない、世の中には自分より大変な状況に置かれた人だっている、そう思って自分以外の人々の苦しみに共感するとき、病苦を耐える力が生まれてくるでしょう。

4.超越に心を開く
「苦しみは人間の超越性に属するように思えます。ある意味で、人間が自分自身をそこで越えるようにと運命づけられており、そこに神秘的な方法で呼ばれています。」(ヨハネ・パウロ2世)
「この体が重い病にとりつかれ、まったく無能状態に置かれるほど、生活や行動がほとんど不可能であればあるほど、内的な『成熟や霊的偉大さ』があらわになり、健康な人に心を動かす教訓を与えています。」(ヨハネ・パウロ2世
「人間の魂を変貌させる恩寵への道を他の何よりもはっきりと示すのは、苦しみです。」(ヨハネ・パウロ2世

 病苦に限らず、すべての苦しみは恩寵への道だということができます。苦しみはわたしたちの心の周りに何重にも積み重なったエゴの殻を打ち砕き、ありのままの心で神の前に立つことを可能にしてくれるのです。苦しみの中で自分の才能、財産、名誉、権力、健康などにより頼む心が完全に打ち砕かれ、自分には神以外になにも頼れるものがないということを痛感できたとき、神の前にまったく無力な自分を差し出すことができたとき、わたしたちの心に神の恵みがあふれるほど豊かに注がれます。苦しみの中で感じる痛みは、エゴの殻を打ち砕くために下されたハンマーの痛みだと言えるかもしれません。
 キリスト教徒にとってすべての苦しみは恵みだといえるでしょう。苦しみの中で傲慢な心を打ち砕かれたとき、わたしたちは神の前にひざまずくことができるのです。

5.受けた恵みを分かち合う
「苦しんでいるあなた方すべてに、わたしたちを助けて下さるようにお願いします。わたしたちは、弱い者であるあなたがたのその弱さで、教会と人類のために、『力の源となってくださるように』お願いしたいのです。」(ヨハネ・パウロ2世
「御自分の苦しみの一部を与えるほどあなたを愛して下さる主によって選ばれたのですから、あなたは幸せに違いありません。勇気を出して、元気でいてください。そして、わたしたちが多くの人々の魂を主のもとに連れていくことができるように、多くのものを捧げてください。」(マザー・テレサ

 キリスト教の伝統の中には、病者の苦しみが健康な人々の活動の力の源泉になるという信仰があります。マザー・テレサは、自分たちの活動を支えてくれる病者の会を組織し、「神の愛の宣教者会」に属するすべてのシスターが一人の病者と文通できるようなシステムを作り上げました。
 病苦を通してあふれ出した神の恵みが、健康な人々にも及び、この世界全体を幸せにしていくということでしょう。この信仰は、多くの病者にとって希望になると思います。

6.人々の心に愛を呼び起こす
「苦しみは、人間の人格の中で愛を誘発するために存在するということ、つまりそれぞれの『自己』を特に苦しんでいる人々のために、まったく無欲で与え尽くすために存在しているということです。苦しみの世界は、愛という他の世界への絶え間ない呼びかけでもあります。」(ヨハネ・パウロ2世
 ヨハネ・パウロ2世は、「よきサマリア人」の譬えを例にとって、苦しんでいる弱者の存在は人々を愛の実践へと招く役割を担っていると言います。病気や怪我で苦しんでいる人を見かけたとき、わたしたちは愛の実践へと誘われていくのです。
「その家に着いたとき、わたしはその家の子どもの1人が、見たこともないほど重い障害を負っており、ひどいハンディキャップがあることを知りました。…その家族には、すばらしい喜びの精神がありました。愛し方を教えてくれる人がいたからです。」(マザー・テレサ
 ベネズエラである家庭を訪問したとき、マザーはこの事実に気がつきました。重い障害を負った子どものいる家庭に少しの暗さもなく、むしろ喜びが溢れているのを見たとき、マザーはその子どもこそこの家族に与えられた恵みなのだと悟ったのです。無力な子どもの存在が、家族に愛し合うことの喜びを教えてくれたのです。

7.なぜ悪が存在するのか?
 ここまで、苦しみにどんな意味があるのかについて考えてきました。ですが、最後まで解けない疑問が一つ残っています。それは、苦しみそれ自体が悪であるとすれば、なぜ神はそのような悪が存在することをお許しになるのかということです。
 病苦にどれほど意味があったとしても、肉親が病に冒されて呻く姿を見るのは耐え難いことですし、ハイチで起こった地震のことを思うと、なぜ罪のない人々、多くの子どもたちがこんなひどい目に会うのかと思わざるを得ません。神は、なぜこのような悪の存在を放っておかれるのでしょうか。
 その答えは、「神の思いは人間の思いをはるかに超えている」ということに尽きると思います。人間の目から見れば死よりも生がいいに決まっているし、病気よりも健康のほうがいいに決まっていますが、それはあくまでも人間の目から見たものの見え方です。詩編139は次のように言っています。
「『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」(詩編139)
 光と闇を同じように見通される神の目から見たとき、死と生、病気と健康、豊かさと貧しさのあいだには、もしかするとあまり区別がないのかもしれません。
 イエス・キリストにおいて、神は死を含めて人間のすべての苦しみを味わいました。すべてをご存じの神が、わたしたちに悪いことをするはずがありません。神はすべてを善い方向に導かれるはずだということを信じたいと思います。