やぎぃの日記(77)「諸宗教の神学」講演会


 一昨日、大阪大司教区の教区月修で南山大学のシーゲル神父が「諸宗教の神学」について話してくださった。「諸宗教の神学」というのは、簡単に言えば、キリスト教徒は他の宗教を信じる人々の救いについてどう考えるべきかということを考察する学問だ。今、世界中で大きな話題になっている。キリスト教神学が現在直面している最も困難な問題の一つと言っていいだろう。
 シーゲル神父は、まず歴史の中で教会が「教会の外に救いなし」ということをどういう意味で主張してきたかについて話してくださった。原則的に、教会がキリスト教以外の世界に開かれていた時期(例えば初代教会の頃や大航海時代)には、教会の外にも救いを認めてきたとのことだった。なぜなら、実際に自分たちの隣で諸宗教を信じて幸せに暮らしている立派な人たちに向かって、「あなたたちは救われない」とは言えないからだ。
 今から45年前、第二バチカン公会議は諸宗教にも救いがあることを認めた。しかし、その救いは最終的にイエス・キリストと出会うことで完成する「不完全な救い」だ。この考え方は昔に比べると大きな進歩だが、ではなぜ神は、本人に何の落ち度もないまま素朴に諸宗教を信じる人たちに「不完全な救い」しか与えないのかという疑問が残るとシーゲル神父は指摘された。「全人類を救いたいという神の思い(神の救いの普遍性)」と「キリストこそわたしたちの救い主だという事実(キリストの唯一絶対性)」を、どちらも大切にしながら調和させていく試みをさらに続けねばならないということだ。
 これはとても考えさせられる指摘だと思う。もっとも、「完全な救い」がイエス・キリストとの出会いのことだとすれば、わたしたちキリスト教徒もほとんどの場合死ぬまで直接イエス・キリストと出会って救われるという体験はしないまま終わるだろう。自分たちは完全に救われている、優れた宗教だと主張するのではなく、キリスト教徒も諸宗教の人々と共に謙虚にイエス・キリストとの出会いを求めて歩んでいくということではどうだろうか。
※写真の解説…大阪城公園の寒桜。