バイブル・エッセイ(121)全身で表す愛


エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(マルコ7:31-35)

 耳が聞こえず話すことができない友を連れた人々が、イエスの方にやってきました。親友の苦しみを見るに見かねて、藁にもすがる気持ちでやって来たのでしょう。イエスの前にやって来た彼らは、「せめて友の頭に手を載せてください、そうすれば治るでしょう 」と懇願します。
 友を思う彼らの愛と信仰に打たれたイエスは、ここで思わぬ行動に出ました。頭に手を載せるどころではなく、何と指を両耳に差し入れ、唾をつけた指をその人の舌に触れさせたのです。おそらく、うちからあふれ出した愛が、イエスにそのような行動をとらせたのだと思います。慈しみに駆られて、体が動くのを抑えきれなかったのです。
 イエスは、そんなことをしなくてもこの人を癒すことができたでしょう。しかし、神の愛はイエスの全身を通してあふれ出し、人々にはっきりしめされずにいなかったのです。人の目には奇異に見える行動かもしれませんが、ここに神の深い愛が示されています。
 ときが満ちて、イエスはさらにはっきりした表現でわたしたちに愛を示します。御自分の肉と血をわたしたちにお与えになったのです。これも人の目には奇異に見える行動ですが、ここにわたしたちを思うイエスの愛が余すところなく示されています。神は、全身でわたしたちに愛を示し、与えてくださる方なのです。この愛を全身で受け止め、神の愛に満たされて生きていきたいものです。
※写真の解説…黄色く染まった木と冬の青空。芦屋川のほとりにて。