バイブル・エッセイ(122)強欲な農夫


 そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(マタイ21:33-41)

 この話しを聞いて、皆さんどう思われたでしょうか。「この農夫たちはなんと強欲なんだろう、あきれるな」と思った方もいるかもしれません。ですが、この話しを何度も読んでいると、もしかするとこの農夫たちはわたしたち自身のことなのかなとも思えてきます。
 わたしたちが生まれたとき、神様はわたしたちに家族を与え、住む家、食べる物、着る物などを全て準備してくださいました。おまけに、ある人には楽器を弾く才能、ある人には話す才能、ある人には勉強の才能まで与えてくださいました。それらのものを受け取ったわたしたちは、まるでよく整えられたぶどう園の管理を任された農夫のようなものです。
 時が過ぎると、神様は与えられたものを元手にして蓄えた富、時間、能力などを差し出すよう、わたしたちのもとに僕を送ってこられます。その僕は、ときに貧しい人の姿をしていたり、悩んでいる友人や病気の家族の姿をしていたりします。神様は、そのような人たちを通してわたしたちに収穫を差し出すようにと促しておられるのです。わたしたちは、彼らを無視したり、自分の心から追い出したりしてしまうことがないでしょうか。
 さらに、わたしたちは相手の中にイエス・キリストがおられるとはっきり分かっているときでも、自分のプライドや利己心に負けて相手の言うことを拒んでしまうことがあります。相手が正しければ正しいほど腹を立て、相手をやっつけようと思ってしまうことさえあります。そんなとき、わたしたちは「主人の一人息子」を拒んでいるのです。彼を殺して、「彼の相続財産を自分のものにする」、つまり自分自身を神にしようとしているのです。
 たとえ話の農夫たちが犯した最大の過ちは、神様から預かったものを自分のものにしようと企てたことでしょう。神様からいただいたものは、なんでも喜んで神様にお返ししたいものです。 
※写真の解説…神戸の街を見下ろす枯松。荒地山にて。