マザー・テレサに学ぶキリスト教(29)諸宗教との出会いⅡ

第29回諸宗教との出会いⅡ
 前回、諸宗教に対する態度として論理的に4つが考えられることを紹介しました。絶対主義、包括主義、相対主義、そして現実主義です。今回は、カトリック教会がこのことについてどう教えているのかお話し、さらにマザー・テレサがその教えをどう実践したかをお話ししようと思います。
1.第二バチカン公会議の見解
 第二バチカン公会議では、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」を始めとして、教会憲章、現代世界憲章のなどのあちこちで諸宗教を信じる人々を意識した宣言が行われました。第二バチカン公会議が諸宗教に対してどのような態度をとっているのかを一義的に決定するのは困難ですが、一定の方向性を読み取ることは可能なようです。
(1)キリスト教を信じていない人々の救い
①教会憲章
 教会憲章は、キリスト教を信じていない人々の救いについて次のように語っています。
「神はすべての人に生命と恵みといっさいのものをお与えになり、また救い主はすべての人が救われることを望みたもうのであるから、影と像のうちに知られざる神を探し求めている他の人々からも、神は決して遠くない。事実、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。」(16番)
 ここいう「影と像のうちに知られざる神を探し求めている他の人々」は、諸宗教を信じている人々を含んでいると考えられます。キリスト教を知らない彼らも、それぞれの仕方で神を探し求め、良心に従って誠実に生きている限りイエス・キリストがもたらした「永遠の救い」に達することができるというのです。
②現代世界憲章
 現代世界憲章は、わたしたちの救いがイエスの死と復活によってもたらされることを語った上で、次のように語っています。
「このことはキリスト信者についてばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。実際、キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものであるから、聖霊は神のみが知りたもう方法によって、すべての人の復活秘儀にあずかる可能性を提供されることをわれわれは信じなければならない。」(41番)
 キリスト教を信じていない人でも、聖霊の働きに支えられた善意の人は、イエスの死と復活によって救われるというのです。聖霊の目に見えない働きによって、わたしたちの知らない方法で神様はすべての人に救いの手を差し伸べておられるのです。
(2)諸宗教の中にある真理
 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」は、諸宗教の中にある真理について次のように語っています。
「普遍なる教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も退けない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なってはいるが、すべての人を照らす『真理』のある光線を示すことがまれではない。」(2番)
 諸宗教の中にも真理が含まれていることを、この文章ははっきりと認めています。諸宗教は、無価値な偶像崇拝などではなく、人々を救いへと導く真理を含んだ尊いものだということです。
(3)キリスト教と諸宗教の両立
 ここまで見てくると、第二バチカン公会議は諸宗教を信じる人々もイエス・キリストによって救われることを認めているようです。基本的にはそうだと思うのですが、教会憲章および「教会の宣教活動に関する教令」には、次のような重大な例外が記されています。
カトリック教会が、神により、イエス・キリストをとおして、必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に最後までとどまることを拒むとすれば、このような人々は救われることができない。」(教会憲章14番、「教会の宣教活動に関する教令」7番)
 諸宗教を信じる善意の人々であっても、もしなんらかの方法で「カトリック教会が、神により、イエス・キリストをとおして、必要不可欠なものとして建てられたこと」を知ったならば、キリスト教に改宗しなければならないというのです。カトリック教会がイエス・キリストと一致していることを認めながらカトリック教会を拒むならば、それはイエス・キリストを拒むことに他なりませんから、救われ難いということでしょう。
(4)まとめ
 第二バチカン公会議の諸宗教に対する態度は、次のようにまとめることができるでしょう。
原則・諸宗教の中にも真理が存在する。カトリック教会を知らないまま諸宗教を信じて誠実に生きる善意の人は、わたしたちが知らない方法でイエス・キリストの復活秘儀に与って救われる。
例外・カトリック教会が、イエス・キリストとの一致のうちに全人類の唯一の救いの道であることを知りながら、カトリック教会を頑なに拒む人は救われない。
 
2.カール・ラーナーの理論
 次に第二バチカン公会議で示された教えに神学的な裏付けを与える、カール・ラーナーの諸宗教についての考え方を概観してみましょう。カール・ラーナーの諸宗教に対する考え方は、彼の人間観と救済観に基づいています。
(1)人間観
 ラーナーは、すべての人間の心がどこかで神に向かって開かれていると考えています。本人が気付くかどうかにかかわらず、その開かれた部分からすべての人の心に神の恩恵が聖霊として注がれ、神の声が響いてきます。それゆえ、キリスト教を信じているかどうかに拘らず、すべての人は神から救いへと招かれているとラーナーは考えます。
(2)救済観
 問題は、神からの招きに気づいたときに、神の招きに応え、心を神に向かって開け放つかどうかです。
神の招きに応えるためには、多くの場合自分の思いを犠牲にしなければなりません。自分のためにあれがしたい、これが欲しいというような思いを捨てて、神への愛のために隣人を助けることが求められるようなことがたびたびあります。もし自分の思いを乗り越えて神の御旨に従うならば、わたしたちの心は神に向かって大きく開かれ、そこから豊かに救いの恵みが注がれます。もし自分の思いを優先するならば、心に開かれた窓はその思いによって塞がれてしまいまい、救いの恵みが心に入ってくることはありません。
(3)イエス・キリストによる救いの完成
 自分の思いを全て捨て、神に対して完全に心を開ききることができた人が全人類の歴史の中にただ1人います。それが、イエス・キリストです。イエスが十字架上で、全人類に神の愛を告げるために自分の命さえも神に差し出したとき、イエスの心は神に向かって完全に開け放たれました。その開け放たれた心に、神は御自分の愛のすべてを注ぎこみました。(このことをラーナーは、イエスの完全な自己超越において、神の完全な自己譲与が起こったという言葉で説明します。)
 ラーナーは、この出来事に全人類の救いの完成を見ています。全人類は、イエスにおいて実現した完全な救いに与ることによってのみ救われるのです。ですから、他の宗教によいところがたくさんあったとしても、救いの完成はキリスト教のうちにしかないのです。その意味で、キリスト教は絶対的な宗教であり、他の宗教と対等ではありえません。
(4)「無名のキリスト者
 ラーナーは、自分の心の底から呼びかける声が、神の声であると気づかないままそれに従って生きている人たちを「無名のキリスト者」と呼びます。自分の良心に従って「手探りで真理を求めながら」生きている彼らは、自分では知らないうちにイエス・キリストによる救いの完成へと向かって進んでいるのです。
(5)諸宗教の「正当性」
 ラーナーは、諸宗教にも救いへの道としての「正当性」を認めます。ですが、その「正当性」はそれらの宗教がキリスト教と出会うまでのことです。救いへの完全な道としてのキリスト教と出会うとき、諸宗教はキリスト教に道を譲らざるを得ないのです。
3.マザー・テレサの実践
 最期に、マザー・テレサが第二バチカン公会議の教えをどのように実践したかについてお話したいと思います。マザー・テレサは、諸宗教が混在するインドの地で、どのようにして諸宗教の人々と向かい合っていたのでしょうか。マザー・テレサは、どうして宗教の壁を越え、広く人々の共感を集めたのでしょうか。
(1)福音宣教の動機
 まず、マザー・テレサの基本的な信仰を確認しておきたいと思います。
「わたしにとってカトリックの信仰はまさに人生そのものであり、わたしの喜びであり、神が愛のうちにわたしに与えてくださったものの中で最も大きな恵みなのです。わたしは人々をとても愛しています。自分のこと以上愛しています。ですから当たり前のこととして、わたしはこの宝を持つ喜びを人々に与えることができたらと思うのです。」
 この言葉からも明らかな通り、マザーはカトリックの信仰を何よりも大切にしていました。自分にとって一番大切なものを、大切な人たちと分かち合いたいというのは自然な心の動きです。その思いが、彼女を「神の愛の宣教者」にしたのです。この言葉は、パウロの次の言葉と響き合っています。
「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(Ⅰコリ9:16)
 福音を知るという大きな喜びに満たされたとき、その喜びを人々と分かち合わずにはいられないし、もし分かち合えないならば不幸だということです。これこそ、福音宣教の原点でしょう。では、マザーはこの喜びを諸宗教の人々とどのようにして分かち合ったのでしょうか。
(2)諸宗教とどう向かい合うか
 諸宗教に対するマザーの基本的な姿勢は、次の言葉に要約されています。
「唯一の神がおられ、その神はすべての人々にとっての神です。ですから、神の前ですべての人々が平等であることが大切です。ヒンドゥー教徒がよりよいヒンドゥー教徒に、イスラム教徒がよりよいイスラム教徒になれるよう、あなたたちがまずよいカトリック教徒になりなさい。」
 マザーは、キリスト教と他の宗教のどちらが優れているかというような話はせず、ただ自分の信じる宗教の伝統を通して神に全てを捧げつくし、そうすることで他宗教の人々の模範になろうとしました。貧しい人への奉仕を通した完全な自己超越の姿が、宗教の壁を越えて全ての人々の心を打ったのです。
 マザーの実践は、「十字架と復活」の真理、つまり、すべての執着を捨て去り、神に自分の全てを差し出すことで恵みに満たされるという真理の実践に他なりません。この真理を実践したマザーの姿が宗教の壁を越えて全ての人の心を打ったという事実は、この真理が人類に普遍の真理だということを示しているように思えます。
 自分を乗り越え、人間を越えた大いなる何ものか、善なる何ものかに自分の全てを委ねきることで喜びと力に満たされ、救われるという体験は、多くの宗教に共通する基本的な体験でしょう。「十字架と復活」に示された救いの真理は、おそらく他宗教の人々にも共通する救いの真理なのです。
 諸宗教の代表者を集めたある会議でマザー・テレサが自分の信仰について話した後、参加者たちは口々に「彼女の話を通して、自分の宗教の原点に触れた思いがする」と語ったそうです。このことは、「十字架と復活」の真理が、諸宗教の原点にある救いの真理に触れるものであることのなによりの証拠ではないでしょうか。
 だからこそ、マザーの信念通り、わたしたちは「十字架と復活」の真理に忠実に生きれば生きるほど、諸宗教の人々をそれぞれの宗教の原点に立ち返らせることができるのです。わたしたちが「よいカトリック教徒」になればなるほど、その様子を見ているわたしたちの隣人である諸宗教の信徒たちはわたしたちを模範としてその宗教のよりよい信徒になり、それぞれの宗教の原点にある「十字架と復活」の真理を通して救われるのです。
マザーは、マハトマ・ガンジーの次の言葉もよく引用していました。
「もしキリスト教徒が本当にキリスト教の教えに従って生きていれば、今頃インドにヒンドゥー教徒はいなかっただろう。」
 キリスト教徒の最大の問題は、大いなる真理に触れていながら、それを実践できないことにあるのかもしれません。キリスト教を知っている、洗礼を受けているというだけでは不十分で、わたしたちは日々、「十字架と復活」の真理を実際に生きるべきなのです。そのことによってのみ、わたしたちは福音を人々に伝えていくことができるでしょう。
(3)無神論とどう向かい合うか
 共産主義政権下のカルカッタの街で、マザーは無神論を標榜する共産主義者たちからも深い尊敬を集めていました。マザーは、中国で「共産主義者をどう思いますか」と新聞記者から質問された時、次のように答えたそうです。
共産主義者もわたしたちの兄弟姉妹であり、『神の子』です。」
 この答えに感動したのか、次の日の共産党の新聞の一面に大きな文字で「共産主義者も神の子」という文字が躍ったそうです。このようなマザーの姿勢が、共産主義者たちの間にさえマザーへの尊敬を生んでいったのでしょう。
 もしかすると、「十字架と復活」の真理は、共産主義の原点にも触れているのかもしれません。人類の平等な繁栄という大いなる目標のために自分を差し出すことが共産主義の一つの原点であるとすれば、その精神には「十字架と復活」の真理が含まれているようにも思えます。
(4)救いとは何か
 おそらくマザーにとって救いとは、来世での幸せではなく、この世で「十字架と復活」の真理を生きることに他ならなかったのでしょう。救いが完成するのはもちろん「神の国」が到来したときですが、わたしたちが自分を犠牲にして神の大いなる善や愛のために自分を差し出していくとき、そこに救いが始まっているのです。
 諸宗教の人々は、イエス・キリストを知らないかもしれませんが、「十字架と復活」の真理を生きることによってすでに救いに与っています。この真理に与っている限り、イエス・キリストを知らなかったとしても彼らはイエス・キリストと一つに結ばれ、救いに与っているのです。その意味で、「十字架と復活」の真理を生きている全ての宗教には救いがある、と言えるでしょう。
(5)まとめ
 つまり、もし諸宗教の人々と共に神に向かって進んでいきたいならば、わたしたちは妥協なく自分たちの信仰を生きなければならないということです。諸宗教との共存のためにわたしたちが信仰の実践を妥協したり、信仰それ自体を曖昧にしたりするのは全くの本末転倒でしょう。
 わたしたちが「十字架と復活」の真理を命がけで忠実に生きるときにのみ、言葉や習慣などのあらゆる違いを乗り越えた本当の諸宗教対話が実現するということを、マザーの実践はわたしたちに教えてくれています。「十字架と復活」の真理の実践において、諸宗教は一致しうるのです。