バイブル・エッセイ(127)十字架を目指して


 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:8-14)

 「目標を目指してひたすら走る」とパウロは言います。情熱に駆られて短い距離を走ることは簡単ですが、パウロは一生を倦むことなく走り続けました。なぜそんなことができたのでしょうか。それは、パウロがどんなときでも目標を見失わなかったからではないかと思います。
 近頃、目標の大切さを痛感させられる出来事がありました。ここのところわたしは、黙想指導や写真展の準備などで忙しく動き回る日々を送っていますが、そんなある日のことです。わたしは仕事で電車に乗り、あるところに向かっていました。乗り換えの駅で階段を上がっていたとき、突然わたしの心に強烈な虚無感が襲ってきたのです。「こんなに働いてなんになるんだろう。黙想の指導をしたって、写真展をしたって、結局すべて無駄なことではないか」そんな思いが黒雲のように湧き上がり、瞬く間にわたしの心を覆いつくしてしまったです。
 全身から力が消え去り、わたしはもうその場で座り込みたいくらいでした。そのまま教会に引き返そうかとも真剣に考えました。そんな思いをなんとか抑えて、わたしはその場で立ち止まり、しばらく目をつぶって祈りました。「主よ、どうしたらいいのでしょうか」と問いかけているうちに、「人々が福音を待っている。彼らのもとに福音を運ぶのがあなたの使命だ」と主が言われたように感じました。すると、不思議なことにまた体の底から力がどんどん湧き上がってきて、わたしはまた歩き始めることができたのです。
 このときわたしは、忙しさの中で目標を見失っていたのだと思います。地上での成果に目を奪われ、目標である十字架上のイエス、苦しんでいる人たちに福音を伝えるために自分の全てを差し出したイエスを見失っていたのです。その姿を再び見出すことで、わたしは再び走る力を与えられたのです。
 わたしたちのなすべきことはただ一つ、十字架上のイエスを見つめ、そこからあふれ出る復活の力に生かされながら走り続けることでしょう。どんなときにも祈りを忘れず、目標であるイエスを見失わないようにしたいものです。 
※写真の解説…教会の庭の片隅に咲いたアネモネ