バイブル・エッセイ(130)愛の風

 このエッセイは、4月11日に行われた初聖体・祝福式のミサでの説教に基づいています。

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:24-29)

 自分は仲間外れにされたと思ってすねているトマスにイエスが現れて、「見えなくても信じなさい」と言いました。「神様の愛は、見えなくてもいつもあなたのそばにあるんだよ。それを信じて安心しなさい」というのです。
 見えなくてもあるものは、わたしたちの周りに意外とたくさんありますね。空気、電気、力、優しさなど、どれも目に見えないけれどもある、とても大切なものです。わたしは、その中でも空気が一番神様の愛に似ているかなと思います。
 空気は見えませんが、空気があるのを感じることはできます。それは風が吹いたときです。今、風が吹くたびに教会の庭で桜の花びらが舞い散っていますが、その様子を見ているとそこに空気があることが分かります。花びらは、空気の中を舞っているのです。
 それと同じで神様の愛も見えませんが、神様の愛の風が吹くと、そこに神様の愛があることが分かります。神様の愛の風、それは喜びだとわたしは思います。たとえば、教会に来て友だちと遊んでいるとなんだか心の底からうれしくなってくる、リーダーたちの笑顔を見ると喜びが心からあふれてくる、それはわたしたちの心にどこかから神様の愛の風が吹き込んだからなのです。喜びを感じるとき、神様の愛は見えないけれどいつもわたしたちの周りにあるんだということが分かります。
 喜びを感じるたびに、「ああ、いま神様の愛の風がわたしの心を吹き抜けたんだな」と思ってください。わたしたちが住んでいるこの世界は、見えない神様の愛に満たされたすばらしい世界なのです。 
※写真の解説…教会の庭の桜。