バイブル・エッセイ(136)イエスが残した平和


 そのときイエスは言われた「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」(ヨハネ14:25-31)

 あなたがたに「わたしの平和を与える」と、イエスはおっしゃいました。イエスがわたしたちに残してくれた「わたしの平和」、すなわち「イエスの平和」とはなんなのでしょう。
 イエスの生涯は、はたして平和なものだったでしょうか。公生活を始めてからのイエスは、住むところもなく、着る物や食べ物にも不自由するような生活を送っていました。最後は人々から激しい迫害を受け、十字架上で処刑されました。弟子たちも、多くはイエスと同じような生涯を送りました。一体どこに平和があるのでしょうか。イエスが残した平和とは何のことなのでしょう。
 わたしたちが考える平和とは、住むところや十分な着る物、食べる物があり、争いがない生活のことでしょう。ですが、イエスの言う平和とは、そういことではないようです。そのような平和は、地上の支配者たちによって左右され、揺れ動く不完全な平和です。それに対してイエスの言う平和、それは地上のいかなる力によっても決して損なわれることのない平和です。その平和とは、十字架上で完成された平和、すなわち自分のすべてを神に委ねる平和だとわたしは思います。弟子たちに見捨てられ、着る物さえはぎ取られ、ついに自分の命さえ奪われたときに完成した平和、神にすべてを返しきったときに実現した平和、それこそイエスの平和なのです。
 わたし自身の経験でも、深い苦しみので「もうだめです。全てを神に委ねます」と心の底から祈った瞬間に、心の底から不思議な安らぎが湧き上がってきたことが何回かあります。この不思議な安らぎこそ「イエスの平和」でしょう。すべてを神に委ねたとき、わたしたちの心の底から聖霊の泉が湧き上がり、渇いた心を癒してくださるのです。聖霊とともに、イエスがわたしたちの心に戻ってきてくださるのです。
 エスが残した平和は、どんなときでもわたしたちのもとを去ることがありません。神の愛を信じ、すべてを神に委ねて、今日も「主の平和」の中に歩んでゆきましょう。 
※写真の解説…満開のシャクナゲ神戸市立森林植物園にて。