バイブル・エッセイ(141)これはわたしの体


 主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(Ⅰコリ11:23-26)
 「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」と、イエスはおっしゃいます。ミサで毎回唱える言葉ですが、わたしは唱える度ごとに全身がふるえるほどの感動を覚えます。この言葉に、一体どれだけ深いイエスの愛がこめられているかを思うからです。
 「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」と言ったとき、イエスは弟子たちのため、苦しんでいるすべての人々の救いのために十字架上で自分の命を差し出すことを覚悟しておられました。この言葉には、弟子たちを、苦しんでいるすべての人々を救うためならば自分の肉の最後の一片まで、血の最後の一滴まで喜んで差し出そうというイエスの思いが込められているのです。
 自分の肉も血もすべてを差し出して相手の救いを願う、これ以上の愛があるでしょうか。この言葉に込められたイエスの愛に触れるとき、わたしは心を深く揺さぶられ、イエスに倣って自分自身もこの体を人々のために喜んで差し出したいと思います。ミサに集まった人々の救いのため、世界中で苦しんでいるすべての人の救いのために、自分のすべてを差し出したいと思うのです。「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」と唱えるとき、わたしはイエスの体と同時に自分の体も神にお捧げしているのです。この感動は、おそらくすべての司祭がミサのたびに味わい、召命を支える力としている感動はないかとわたしは思います。
 イエスの深い愛がパンとブドウ酒を満たしたとき、パンとブドウ酒はイエスの肉と血に変わりました。外見はパンとブドウ酒のままでも、イエスの愛に満ち溢れたそれらはもはやイエスの肉と血なのです。この奇跡が、今わたしたちの目の前でも起ころうとしています。わたしたちが心を一つにして祈るとき、神はその祈りにこたえてパンとブドウ酒を愛で満たし、イエスの肉と血に変えてくださるのです。この恵みを改めて思い起こし、心からの感謝のうちにミサを進めて行きましょう。
※写真の解説…風に揺れる麦の穂。JR亀岡駅周辺にて。