マザー・テレサの言葉を読む(23)神は沈黙の友


神は沈黙の友です。わたしたちは神を見つけなければなりませんが、騒音や興奮の中に神を見いだすことはできません。自然が、木が、花が、草が、深い沈黙の中でどうやって成長していくかを見なさい。
 旧約聖書に次のようなエピソードがあります。預言者エリヤが神に出会ったときの話です。洞窟に隠れたエリヤの前を激しい風、地震、燃えさかる炎が通り過ぎていきますが、それらの中に神はいませんでした。エリヤと神の出会いは次のようなものでした。
「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(列王記Ⅰ19:11-13)
 人間は古来、大自然の驚異の中に人間の力をはるかに超えた神の力を感じ、それらの中に神を探してきました。しかし、わたしたちの神は人の目を驚かせるそのような出来事の中にはいません。神は、「静かにささやく声」の中にこそおられるのです。
 心をざわつかせる騒音や興奮の中で神を見出すことはできません。「静かにささやく声」がかき消されてしまうからです。「静かにささやく声」に耳を傾けるためには、どうしても心の沈黙が必要なのです。心を静め、心の奥底から響いてくる小さな声に耳を傾けたときわたしたちは初めて神を見つけることができるのです。
 さまざまな出来事に一喜一憂し、感情に翻弄され、欲望に縛られているとき、わたしたちの心には大きな声が鳴り響き、「静かにささやく声」をかき消します。心を沈黙させるるためには、それらの思いを乗り越え、ただ神の恵みに身を委ねる必要があるでしょう。
「自然が、木が、花が、草が、深い沈黙の中でどう成長していくかを見なさい」と、マザーは言います。木々や草花は決して周りのことを気にしたり、不安や心配で心を乱したりすることがありません。神様の恵みを全身で受けて、ただひたすらに咲いているのです。その姿の中に沈黙の手本があるとマザーは言うのです。
「バラは何のために咲くのでもない。ただ、咲くがゆえに咲く」という有名な言葉があります。わたしたちも木々や草花のようにすべてを神に委ね、深い沈黙の中で神様からいただいた命を全力で生きたいものです。