バイブル・エッセイ(146)深く憐れんで


 エスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:35-38)

 人々が飢えや渇きに弱りはて、苦しみに打ちひしがれているのをつぶさに見たイエスは、彼らを深く憐れんで「収穫の働き手を送ってくださるよう主に願え」と弟子たちに勧めます。そうすれば、主が人々の苦しみに目をとめ、彼らのために働く者を送ってくださるだろうというのです。
 そもそも父なる神がイエスを地上に送ったときもそうでした。神は天から地上で人々が争いあい、互いを傷つけ合っている様子、神を知らないまま罪に落ちてゆく様子をご覧になるうちに深い憐れみを覚え、なんとかせずにいられないという思いに駆り立てられて御自分の一人子を地上に送ることを決断しました。神が地上に現れるということは本来あり得ないことですが、深い憐れみのあまり神はそうせずにいられなかったです。
 地上に送られたイエスご自身も、憐れみ深い神の愛を実践されました。イエスは地上で出会う人々が病気や患いで苦しんでいるのをご覧になると、深い憐れみを感じて彼らに手を差し伸べずにいられませんでした。こうして、自然の法則に反するような奇跡が次々と行われたのです。
 目の前にいる相手に深い憐れみを感じ、いてもたってもいられなくなって手を差し伸べる、これこそが神の愛だと思います。苦しんでいる人を前にして「わたしはキリスト教徒だからこの人を助けなければ」とか、「わたしはどう行動したらいいのだろうか」とか、そんなことを考えているうちはまだ駄目でしょう。目の前にいる人の苦しみを思うあまり深い憐れみで心が一杯になったときに、利害損得や人目も忘れて体が自然に動き、相手に手を差し伸べる、ほほ笑みかける、あたたかい言葉をかける、それが神の愛だと思います。わたしのことを忘れて相手の苦しみを思うとき、深い憐れみにつき動かされて、そうせずにはいられなくなるのです。
 わたしたちもこの愛、目の前にいる人たちの苦しみに深く共感し、憐れみの心を感じることから始まる神の愛を生きられるように願いたいものです。もし実現すれば、わたしたち自身も神の収穫の畑の力強い働き人にしていただくことができるでしょう。
※写真の解説…アジサイに彩られた京都、三室戸寺。2008年に撮影したもの。