バイブル・エッセイ(148)イエスの叱責


「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(マタイ11:20-24)

 イエスユダヤの街々を激しく叱責しておられます。しかし、これは決して人々の滅びを願う呪いの言葉ではありません。イエスがこれほどまでに厳しい言葉を発したのは、同胞であるユダヤの人々に対する深い愛からなのです。これらの厳しい言葉の背後には「これほどまでにわたしはあなたたちを愛しているのに、なぜそれに気付いてくれないのか」というイエスの思いが隠されているのです。このように言うとき、イエスの目にはきっと涙が浮かんでいたに違いありません。
 この言葉は、わたしたちにも向けられた言葉としても受け止めることができるでしょう。ミサにおける聖変化を頂点として、わたしたちの目の前では日々、無数の愛の奇跡が起こっています。もう無理かと思っていた友人との和解が実現したり、ゆるされるはずもないような罪がゆるされたり、会話の中で思いがけず誰かを力づけることができたり、それらすべてはイエスがわたしたちのためにしてくださった愛の奇跡だと言えます。この奇跡に込められた愛に気づかず、イエスに背を向け続けるならば、イエスは目に涙を浮かべながら深く悲しまれるでしょう。
 厳しい言葉の背後に込められた、イエスの深い愛に気づきたいものです。もし気づくことができれば、わたしたちは悔い改めずにはいられないでしょう。罪の道から離れ、これほどまでにわたしたちを愛してくださるイエスを2度と悲しませたくないと思うに違いありません。それが本当の回心だと思います。あまりにも深い愛に触れたとき、わたしたちの心は変わらずにいられないくなるのです。罪の道に迷うとき、涙を浮かべながらこちらを見つめるイエスの深い愛のまなざしに気づく恵みが与えられますように。
※写真の解説…満開の花菖蒲。2007年、北山公園にて。