神はいっぱいのものを満たすことができません。
神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。
毎年待降節が来ると、マザー・ハウスの聖堂に空っぽの飼い葉桶と藁を一杯に入れた箱が並べて置かれます。マザーはその飼い葉桶と箱の前にボランティアたちを集め、こんな話をしてくれました。
「これからクリスマスが来るまで、イエス様のために何か犠牲を一つするたびごとにここへ来て、飼い葉桶に箱の藁を一本いれなさい。それが、あなたたちにとって一番いいクリスマスへの準備になるでしょう。」
わたしはマザーに言われたとおり、ボランティア先までバスで行くはずのところを歩いて行ってその分のお金を献金したり、他の人が嫌がる仕事を進んで引き受けたりして一生懸命に自分を犠牲にし、そのたびに飼い葉桶に藁を一本ずつ入れていきました。他のボランティアたちもそれぞれに犠牲をし、せっせと藁を飼い葉桶に運んでいるようでした。
クリスマスのミサの前に、マザーはボランティアたちをもう一度集めて言いました。
「あなたたちの犠牲のお陰で、今飼い葉桶はあなたたちの愛のこもった藁で一杯になりました。それと同時に、あなたたちの心にもきれいに掃除され、神様への愛で満ちた空間が出来上がっているはずです。今こそ、飼い葉桶とみなさんの心にイエス様をお迎えするときです。」
マザーがわたしたちに犠牲をさせたのは、単に飼い葉桶を藁で一杯にするためではありませんでした。わたしたちの心から自分への執着、さまざまな被造物への執着という荷物を片づけ、イエス様を迎えるのにふさわしい空間を作るためでもあったのです。
この話から、冒頭の言葉の意味が分かるのではないでしょうか。もしわたしたちの心が自分への執着で一杯ならば、イエスが来てくださる場所も、神の愛が入ってくる場所もありません。自分への執着を一つひとつ手放して心に十分な空間、「空っぽ」な場所ができたときにだけわたしたちはイエス様を心にお迎えし、神の愛で心を満たしていただくことができるのです。わたしたちの心に「空っぽ」の場所があること、それが祈りの中で神の愛に満たされるための前提条件だと言えるでしょう。