バイブル・エッセイ(149)必要なことはただ一つだけ


 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 長い道のりを旅してきたイエス一行を、マルタが家に迎え入れます。旅に疲れたイエスたちをもてなしたい一心だったのでしょう。しかし、迎え入れたのはいいものの突然の来客でマルタはてんてこ舞いすることになりました。「まずイエス様のため、そしてお弟子さんたちのために足を洗う水をお出しして、足を拭う布を準備して、冷たい水をお出しして。ああ、お食事も準備しなければ。」そんな風にどんどん気をまわして、マルタは忙しく動き回ります。このときマルタを動かしいているのは、もはや疲れているイエスのために何かをしてあげたいという愛情ではなく、あれもしなれけばこれもしなければという義務感でした。
 そんなマルタは、座ったまま何もしないでただイエスの話だけに耳を傾けているマリアが許せませんでした。「自分は働かなければならないのに、なぜこの子は」と思ったのでしょう。義務感から奉仕している人は、そのように考えるものです。マルタはいら立ち、すさんだ心でイエスに向かって苦情を言います。マリアはすぐ目の前でその言葉を聞いていたはずですから、大変なあてこすりです。
 そんなマルタの姿を見て、イエスは深く憐れみ「マルタ、マルタ」と話しかけます。そして、「そんなにたくさんのことをする必要はない。わたしを迎えるために本当に必要なことはただ一つ、わたしの語る言葉に耳を傾けることのなんだよ」と優しくマルタに諭すのです。そう、イエス様を迎えるために本当に必要なことは、心をイエス様に向け、イエス様の声に耳を傾けることだけなのです。
 わたしたちはマルタのようになってしまうことがないでしょうか。奉仕は「あれもしなければこれもしなければ」という義務感からするものではありません。相手を大切に思い、相手のために何かせずにいられないという愛情から自然に体が動いたとき、そこに本当の奉仕が生まれます。ですから、例えば教会で奉仕するときも、教会に来てすぐに台所に飛び込むのではなく、まず聖堂でイエスの言葉に耳を傾けることから始めたいものです。イエスの言葉に耳を傾け、イエスの愛を心の深くで受け止めるなら、イエスのために、そしてイエスの教会のために、イエスにおける兄弟姉妹のために何かせずにいられなくなるでしょう。そのとき動き始めればいいのです。家庭での奉仕も同じでしょう。「今日はあれもしなけばこれもしなければ」という義務感から始めるのではなく、まず祈りの中で家族を与えてくださった神様の愛をしっかり受け止め、神様のために、神様からの贈り物である家族のために何かせずにいられないという思いから始めたらいいでしょう。
 義務感に追われて心が荒んだとき「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。必要なことはただ一つだけである」と呼びかけるイエスの慈しみ深い声を思い起こしたいものです。
※写真の解説…布引ハーブ園にて。