マザー・テレサの言葉を読む(30)神の手の中の鉛筆


わたしは神様の手の中の小さな鉛筆にすぎません。
神が考え、神が書くのです。

 鉛筆を使って画家がすばらしい絵を描いたからといって、もし鉛筆が自分は偉いと思い込んだらどうなるでしょう。鉛筆がおごり高ぶって自分の力で勝手に動き始めたら、きっと絵はめちゃくちゃになってしまうに違いありません。鉛筆は、画家の手の中で、画家の思うままに動くからこそ美しい絵を描くことができるのです。
 それと同じで、わたしたちが神の手の中でどれほど立派なことを成し遂げたとしても、それは神がしたことであってわたしたちが偉いわけではないのです。どれほど学歴を得たとしても、世間から評価されたとしても、金持ちになったとしても、それらの栄光はすべてわたしたちを使っている神に帰せられるべきでしょう。もしわたしたちが勘違いして自分自身を偉いと思い、勝手に行動し始めるなら、もはや神はわたしたちを使うことができなくなり、せっかく描き始めた絵は台無しになってしまいます。
 マザーはこのことをよく知っていました。ですから人々がどれほど彼女を褒め称え、無数の栄誉を与えても、マザーはただ自分を「神の手の中の小さな鉛筆」と呼び続けたのです。この謙虚さ、神へのまったき委ねこそが、マザーを通して神の偉大な業が行われた秘密だと言ってもいいでしょう。謙虚になればなるほど、神に委ねれば委ねるほど、神はマザーを使って偉大な業を行うことができたのです。
 マザーのように生きたいならば、わたしたちも自分自身を神の手の中の小さな鉛筆と見なし、すべての栄光を神に返さなければなりません。すべての栄光を神に帰して自分を空にしたとき、自分は神の手の中の小さな鉛筆にすぎないと思って神に全てを委ねたとき、神はわたしたちを使ってその偉大な業を始められることでしょう。大切なのは、自分の力で生きることではなく、神の力によって生かされることなのです。
 一日のうちに何回も、今の自分は神の手の中の鉛筆になっているかを確認する時間を持ちたいものです。わたしは今、神の思いのままに動いて美しい線を描いているだろうか、それとも神の思いをそれて余計なことを描こうとしているだろうか、自分に問いかけてみましょう。