バイブル・エッセイ(153)聖母被昇天


 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。
 「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:39-45)

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」というエリザベトの言葉にも表れている通り、聖母マリアの生涯を貫いていたのは、神への全面的な信頼と委ねだったように思います。
 「お言葉通り、この身になりますように」と天使に答えたとき、マリアは神の全人類の救いを望む神の御旨を信頼し、その御旨を実現するために自分の命さえかけました。当時の律法によって死刑になる可能性があったのに、ただ神の御旨を信頼して自分の命さえも神に委ねたのです。今日はマリアの死とその直後に起こった出来事を記念する日ですが、そのように生きたマリアにとって死は少しも恐れるべきことではなかったに違いありません。
 全面的な信頼と委ねということで思い出す話があります。それは、一人の空中ブランコ乗りの少年の話です。その少年は、命綱もつけずに危険な演技を次々と披露することで有名でした。あるとき新聞記者がこの少年に聞きました。「なぜあんな危険なことができるのですか。地面に落ちたら死んでしまうのに。」すると少年が答えました。「ぼくは、お父さんが必ずぼくを受け止めてくれると信じているからちっとも怖くない。」そう、少年がいつも一緒に演技していたのは自分のお父さんだったのです。
 マリアの神に対する信頼と委ねも、きっとこのようなものだったのでしょう。人間として多少の恐れはあっても、いつも必ず自分の手を捕まえて引き上げてくれる神を信じて自分の身を宙に投げ出す、マリアの生涯はそのようなことの連続だったのだろうと思います。死に直面したときも例外ではなかったでしょう。マリアは神へのまったき信頼のうちに、死の深淵へと身を投げ出しました。マリアの信じたとおり、そのとき父である神はマリアの手をしっかりと掴み、天国へと引き上げてくださいました。それが、聖母マリアの被昇天ということだと思います。
 日常生活の中でいつも神に身を投げ出して生きている人は、死のときも恐れずに自分の身を投げ出すことができるはずです。まったき信頼のうちに神に向かって身を投げ出す人を、神は必ず受け止めて天国まで引き上げてくださるでしょう。わたしたちも、空中ブランコの少年や聖母マリアのような信頼と委ねを生きたいものです。
※写真の解説…立ち枯れた木と夏雲。日光、戦場ヶ原にて。