バイブル・エッセイ(155)十字架の戸口


 そのとき、イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13:22-30)
 「狭い戸口から入りなさい」というイエスの言葉を味わっているうちに、一つの十字架を思い出しました。以前に住んでいたイエズス会神学院の食堂に飾られた細長い十字架です。大きさは縦50㎝横40㎝くらいだったかと思います。ひょろっとして変わった十字架だなと思っていましたが、あるときその十字架にうっすらとイエスの姿が刻まれているのに気付きました。ありえないくらいに痩せ細ったイエスでした。
 わたしはずいぶんおかしな十字架だなと思っていたのですが、わたしの親友の神学生はその十字架をとても気に入っていました。売っているところを探して、自分の部屋にも同じものを置きたいと言うくらいでした。ある日、わたしは彼がそこまでいうからにはと思ってその変わった十字架を一人で眺めていました。すると、じっと見ているうちに、なんだかイエスが十字架の中に吸い込まれていくような気がしました。
 そのとき初めて、わたしはその十字架の意味に気づきました。まるで自分の身を削るようにして人々にすべてを与え尽くし、痩せ細ったイエスが今まさに自分の命さえも差し出し、十字架を通って天国に引き上げられていく。おそらくこの十字架の作者はそのことを表現したかったのでしょう。親友の神学生がその十字架を気に入った意味も初めてわかった気がしました。
 太っていては天国に入れない、という意味ではありません。六甲教会に来てから5キロも太ったわたしにそんなことを言う資格はないでしょう。むしろ気をつけなければならないのは「心の贅肉」だろうと思います。わたしたちの心は、自分を大きく見せるために、本当は必要がないもので大きくなってしまっていないでしょうか。隣人に分け与えるべきものまで、体の中にため込んでいないでしょうか。そのような贅肉のある人は、決して十字架の戸口から入ることができないでしょう。
 自らの身を削るようにして人々を愛しぬいたイエスに倣って「心の贅肉」そぎ落としていきたいものです。わたしたちもいつの日か、十字架という狭い戸口を通って天国に入れていただくことができますように。
※写真の解説…白樺と青空。日光、戦場ヶ原にて。