バイブル・エッセイ(159)霊的な受肉


霊的な受肉
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)

 インマヌエル(共におられる神)としてのイエスの救いは、イエスを胎に宿すというはっきりした形で全人類に先駆けてマリアに実現しました。実際の受胎がいつ起こったのかについて聖書は何も記していませんが、間違いなく言えるのはこの天使との対話を通してマリアの心を聖霊が満たし、マリアの心にイエスが宿ったということです。
 結婚前に子どもを宿すというお告げを聞いたとき、マリアの心はきっと心配や不安に駆られたことでしょう。そんなことになれば、罪人として殺される可能性さえあったからです。しかし、マリアは自分が「主のはしため」に過ぎず、神の大いなる計画について何も知らないことを率直に認めました。そして、神が自分に悪いことをなさるはずがないと信じて、神の言葉に自分のすべてを委ねたのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」というこの短い言葉には、マリアの謙遜と信仰が凝縮していると言えます。
 こうしてマリアが自分のすべてを神に委ね、心を神に明け渡したその瞬間、マリアの心を聖霊が満たしました。その瞬間にイエスがマリアの心に宿り、霊的な受肉が実現したのです。
 わたしたち、特に男性はイエスを身に宿すことはできません。しかし、このときマリアに実現した霊的な受肉は、わたしたちが神の前に自分の小ささ、無力さを認め、神の愛に自分のすべてを委ねるとき、マリアと同じようにわたしたちの身にも起こるでしょう。謙虚さと神への信頼のうちに自分の心を神に明け渡すとき、「いと高き方の力」である聖霊がわたしたちを包み、わたしたちの心にもイエスが宿るのです。こうして、わたしたちの心にもインマヌエルであるイエスの救いが実現します。
 日々の生活の中でわたしたちの心にイエスをお迎えすることができるように、わたしたちの身にもインマヌエルであるイエスの救いが実現するように、聖母のとりなしを願いながら祈りましょう。  
※写真の解説…ナトニンの棚田。教会から歩いて15分ほどのところにある。