バイブル・エッセイ(161)閉ざされた口


閉ざされた口
 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(ルカ1:57-64)

 ヨハネの名前は、「神は慈しみ深い」という意味の「ヨハナン」というヘブライ語に由来しています。待ちわびていた子どもを授けることで、神はザカリアに深い慈しみを示そうとされたのです。
 しかし、ザカリアは神の慈しみを信じることができませんでした。それは長いあいだ子どもを授けられず、そのことを不満に思っているうちに、ザカリアの心に神への不信感が生まれてしまったからでしょう。ザカリアは、神の愛に心を閉ざしてしまったのです。そのことを悲しんだ神は、ザカリアの口も閉ざしてしまいます。
 やがて、その閉ざされた口が開かれるときが来ました。待ちに待った子どもが授けられたときです。神の深い慈しみを体験したザカリアは、心からの神への感謝をこめて子どもをヨハネと名づけました。こうして神の愛に閉ざされた心が開かれたとき、ザカリアの口も開かれたのです。開かれたザカリアの口からは、神を賛美する言葉が次々にあふれ出してきました。神の愛をしっかりと受け止め、心かあふれ出る神への愛を口で表現することで、神とザカリアのあいだに再び固い愛の交わりが結ばれていきます。
 わたしたちの口は、神から受けた慈しみを感謝するためにあるのだということが、この物語から分かります。わたしたちの口は神や人を呪ったり、悪口を言ったりするためにあるのではなく、ただ神から受けた愛を賛美するためにあるのです。神への愛を表現し、神との間に双方向の愛の交わりを結ぶためにあるのです。
 神の思いを疑い、神の慈しみに心を閉ざしているあいだは、わたしたちの口は本来の目的を果たすことができません。神の慈しみに心を開き、いつも神への賛美を口にしながら生きてゆきたいものです。
※写真の解説…すばらしく晴れた日のナトニン教会。