バイブル・エッセイ(163)人となった御言葉


人となった御言葉
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:1-5,14-18)

 全ての被造物は、神の言葉によって造られました。光も水も大地も動植物も、すべては神の「あれ」という言葉によって現れたのです。イスラエルの歴史の中でも、神はたびたび預言者や天使たちを通して言葉で人々を導きました。救いの歴史の中で、言葉は決定的に大切な役割を果たしてきたのです。
 人間同士のコミュニケーションでも、言葉は大切ですね。最近よく見かけるのは、携帯電話で言葉を交わす若者たちの姿です。フィリピンでも日本でも、若者たちは暇さえあれば携帯電話を取り出してメールを打ち込んでいます。
 なぜ、若者たちはそんなに熱心に言葉を交わしたがるのでしょう。それはきっと、言葉を交わすことで自分が愛されていることを確かめるためでしょう。友達から受け入れられ、愛されていること、自分は大切な存在であることを確認するために、若者たちは懸命にメールの言葉を交わしているのです。
 ですが、残念ながらどれほど言葉を交わしてもわたしたち人間は満足することがありません。一部の若者たちが、まるで中毒のように携帯電話をいじっている姿がそのことを示しています。どれだけ言葉を交わしても、わたしたちは言葉だけでは満足できないのです。できるならば電話で声を聴きたい、声を聴いたなら実際に会って愛を確かめたいという風に、望みはエスカレートしていきます。これは、きっと全ての人間に共通の弱さでしょう。
 神は、この弱さをご存知でした。人間たちが言葉だけでは満足できないことに気づいた神は、ついに人間の姿をとってご自身の愛を表すことにされたのです。それが、「言葉の受肉」という出来事でした。言葉が肉となったことで、わたしたちはイエスのぬくもり、優しさ、笑顔を通して、神のメッセージを受け取ることができるようになりました。こうして人間は初めて神の愛を存分に味わい、信じられるようになったのです。肉となった御言葉だけが、人間に救いをもたらしたのです。
 肉となった神の言葉は、今もわたしたちと共に生きておられます。日々の祈りやミサの中で、イエスとの出会いを通して、愛に満ちた神の言葉を受け止めていきましょう。
※写真の解説…山道に咲いた、メキシコ産のヒマワリ。