バイブル・エッセイ(168)足を洗う愛


足を洗う愛
 エスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」(ヨハネ13:3-10)

 ヨハネ福音書の「最後の晩餐」と呼ばれるこの箇所で、十字架につけられる前にイエスは弟子たちの足を洗いました。なぜ、最後の最後に弟子たちの足を洗う必要があったのでしょうか。この行いには、一体どんな意味があるのでしょうか。
 サンダルや裸足で歩いていた当時の人たちにとって、足は自分の体の中で一番汚れた部分でした。そんな部分をイエスに差し出すわけにはいかないと思ったペトロは、最初イエスの申し出を断ります。そんなペトロに、イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言いました。恥ずかしがらずに、あなたの一番汚い部分をわたしに差し出しなさい。わたしがそれを洗い清めてあげようというのです。
 エスはわたしたちの前に立ち、「どんな汚い部分でも、安心して差し出しなさい。わたしがそれを清めてあげよう」とおっしゃいます。わたしたちが恥やプライドを捨てて自分の一番汚い部分、罪深い部分を差し出すとき、イエスはそれをそのまま受け入れ、洗い清めてくださるのです。洗足が行われた晩餐の後、イエスは弟子たちの裏切りの罪さえもありのままに受け入れ、ゆるすほどに弟子たちを愛しますが、この洗足の出来事の中にすでにその愛が先取りされているように思います。
 この愛は、わたしたちの模範でもあります。わたしたちも、互いに足を洗いあうように、互いの一番汚い部分を受け入れあうようにと招かれているのです。隣人の心の中にある汚れた部分から目を背けるのではなく、むしろその汚れた部分を受け入れ、わたしたちの心を満たした命の水、神の愛でその汚れを洗い清めるようにと招かれているのです。エスにならって、隣人の足を洗う愛を実践する勇気と力を神に願いましょう。
※写真の解説…新緑に彩られた神戸、布引の滝。