バイブル・エッセイ(170)生きているイエス


生きているイエス
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)
  
 イエスの墓が空であったというこの事実は、イエスが闇に包まれた死者の世界にはおられないこと、わたしたちが生きるこの世界でわたしたちと共に生きておられることを教えてくれます。イエスは、どんなときでもわたしたちの傍にいて、わたしたちと共に歩んでくださる神なのです。
 先日イタリアのテレビ番組の中で、東日本大震災で被災した1人の少女が、教皇ベネディクト16世に「なぜ子どもたちがこんなに悲しい目にあわなければならないのですか」と問いかけたそうです。この問いに対して、教皇様は「それはわたしにもわからない」と率直にお答えになりました。教皇様も、この圧倒的な自然の脅威の前では、ただ被災者たちの苦しみに共感して涙を流しながら「神様、なぜこのようなことが起こったのでしょうか」と問いかける以外にはないのでしょう。この出来事の理由について、答えを持っている人間など誰もいないのです。
 そのような中でも、ただ一つだけ確かなことがあると教皇様はおっしゃいました。それは、「神様はわたしたちを愛してくださり、わたしたちのそばにおられる」ということです。ただそばに立って傍観しているだけではありません。弟子たちから裏切られる孤独、最愛の母との別離、神から見捨てられたと感じるほどの苦しみさえも人間として味わった神、イエスは、わたしたちの苦しみに深く共感し、わたしたちと共に涙を流しながら一緒に歩んでくださる方なのです。
 それだけではありません。わたしたちと共に泣いてくださるイエスは、同時に、苦しみの涙の向こう側にわたしたちの進むべき道を指し示してくださる方でもあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの苦しみを越えて復活されたイエスは、この理不尽な苦しみの向こう側に広がる神の国へとわたしたちを導かれる方でもあるのです。ここにわたしたちの希望があります。絶望と悲しみの墓穴から抜け出し、光に溢れるこの世界でイエスと共に歩んでいきましょう。 
※写真の解説…六甲山頂の八重桜。