バイブル・エッセイ(172)御聖体の味


御聖体の味
★このエッセイは、5月1日にカトリック六甲教会で行われた初聖体のミサでの説教に基づいています。
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:24-29)

 初聖体を前にして、皆さんの中にはきっと「御聖体って、いったいどんな味がするんだろう?」と思っている人もいるでしょう。わたしも、洗礼を受ける前には同じような好奇心を抱いていたので想像できます。御聖体の味は、わたしにはいつも少しずつ違って感じられます。御聖体の味は、舌だけでなく、心で感じる味だからでしょう。
 心で味を感じるとはどういうことでしょう。例えば、コンビニのおにぎりの味です。一人で御留守番をしながら食べたらあまりおいしくないかもしれませんが、旅行のときに家族と一緒に食べたり、遠足のときに教会学校の友達と一緒に食べたらとてもおいしいですね。御聖体の味も、教会の家族、教会の仲間たちと一緒に食べているんだということを感じながら食べれば、変わってくるような気がします。
 また、例えばお母さんが作ってくれた料理を食べるときのことを思い出してみてください。「なんだ、またいつもと同じ料理か」と思いながら食べたらあまりおいしくないかもしれません。でも、この料理を作るためにお母さんがどれだけ家族の健康のことを考え、買い物に行ったり肉や野菜を刻んだりするのにどれだけ時間を使ったかを思い、心の中で「お母さん、本当にありがとう」と言いながら食べたら、とてもおいしく感じられます。御聖体の味も、その中に一体どれだけたくさんの神様の愛が込められているかを思い、心からの感謝をこめていただくならばきっと変わってくるでしょう。
 教会の仲間たちとの絆や神様の愛は目に見えないかもしれませんが、御聖体の本当の味を知るためには、目に見えないものを信じる信仰がどうしても必要です。エス様がおっしゃる通り「見ないのに信じる」人だけが、御聖体の中に満ち溢れる神様の愛の味を知ることができるのです。それは、「甘い」とか「おいしい」いう言葉では表現しきれないほど深く、わたしたちの体と心を蘇らせてくれる味です。教会の仲間たちとの一致の中で、心からの感謝をこめて御聖体をいただきましょう。
※写真の解説…六甲山のミツバツツジ