バイブル・エッセイ(173)温もりに満ちた光


温もりに満ちた光
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(ヨハネ3:16-21)
 悪を行う者は、光の方にやって来ないとイエスはおっしゃいます。なぜなら、真理の光を浴びることによって自分の醜さ、罪深さが明らかになることを恐れるからです。悪を行う人は、真理の光を浴びることで自らの存在が否定されてしまうことを恐れているのです。
 譬えていうなら、悪を行う人たちは、恐れという牢獄の中に閉じ込められているようなものです。悪を行う人たちは、いらだち、怒り、憎しみなどの深い闇に包まれた恐れという牢獄の中に自分で自分を閉じ込めてしまうのです。闇に包まれた牢獄の中にとどまりつづけることで、その人たちは自分で自分を罰しているようなものです。このような状態を、イエスは「既に裁かれている」とおっしゃいました。
 もしわたしたちの周りに光を恐れて闇の中にとどまっている人がいたら、「真理の光は、決してあなたたちの存在を否定したりしません。安心して出てきてください」と呼びかけたいものです。人を裁くためではなく救うために来られたイエス・キリストは、決してわたしたちの存在を否定したりはしません。イエス・キリストにおいて輝く真理の光は、あらゆる罪をゆるす温もりに満ちた光なので、何も恐れる必要などないのです。
 わたしたち自身も、罪の闇の中にとどまりながら光に対していらだち、悪意や敵意を燃やすことがあるかもしれません。そんなときには、わたしたち自身に対しても同じように呼びかけたいものだと思います。温もりに満ちた光であるイエス・キリストは、弱くて醜いわたしたちをありのままで受け入れ、愛で包み込んでくださいます。その温もりに信頼して、光の中へと歩みだしましょう。 
※写真の解説…陽だまりに咲いたエンコウソウ。六甲山高山植物園にて。