バイブル・エッセイ(179)聞き分ける耳


聞き分ける耳
 エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:22-28)
 人間の耳には、たくさん聞こえている音の中から特定の音、興味や関心のある音だけを選んで聞き取る力があるようです。テレビに見入っていたり、おしゃべりに夢中になったりしているとき、とても近くから話しかけられてもまったく聞こえないことがあるのはそのためでしょう。音は確かに耳に届いているはずなのに、どういうわけかその声はわたしたちに届かないのです。
 それと同じことが、わたしたちの「心の耳」にも言えると思います。わたしたちの心にはたくさんの声が響いているのですが、その中の一つに没頭してしまうと他の声が聞こえなくなってしまうのです。例えば、何かが欲しいという物欲に駆られると、わたしたちの心には「なんとしてもそれを手に入れたい。そのためにどうすればいいだろう」というような声しか聞こえなくなってしまいます。あるいは、一度怒りや憎しみの感情にとらわれると、「あんな奴いなくなればいい。あいつをやっつけるためにはどうしたらいいだろう」というような声しか聞こえなくなります。諦めや絶望に陥った時に聞こえるのは、「もうわたしなんてダメだ。どうにでもなれ」というような声ばかりです。
 本当にわたしたちが聞くべき声、わたしたちの主、イエスの呼びかけを聞きわけるためには、いま自分の「心の耳」が何を聞いているかに気をつけている必要があります。欲望のささやき、怒りや憎しみをあおる叫び、諦めや絶望に陥れる誘惑、それらの声は決してイエスの声ではありせん。それらの声に耳を傾けるのをきっぱりとやめ、心を静かに研ぎ澄ますとき、わたしたちの「心の耳」にイエスの声が響いてきます。イエスは、いつでもすぐ近くからわたしたちに話しかけて下さっているからです。
 どんなときでもイエスは、わたしたちを緑の牧場、「神の国」へと招くために呼びかけおられます。その声を聴きとれるかどうかは、ひとえにわたしたちの「心の耳」にかかっているのです。よい羊としていつも飼い主、イエスの後についていくことができるように、いつも「心の耳」を澄ましていたいと思います。
※写真の解説…神戸、布引ハーブ園のダリア。