バイブル・エッセイ(180)裁くためではなく


裁くためではなく
 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。(ヨハネ12:46-50)
 「わたしの言葉を守らないものがいても、わたしはその者を裁かない」とイエスはおっしゃいます。イエスはわたしたちを裁いて滅びに定めるためではなく、救うために遣わされた方だからです。
 イエスはたとえ自分を受け入れない人、神を受け入れない人であっても決して裁くことがありませんが、残念ながらわたしたちは自分の言葉を受け入れない人を裁いてしまいがちです。自分の思い通りに動いてくれない人、自分の言葉を無視するような人に出会ったとき、わたしたちは心の中で「この人はダメだ。こんな人の相手はしていられない」などとつぶやくことがないでしょうか。そのようにつぶやくとき、わたしたちは相手を裁き、滅びに定めているのです。
 同じことが自分自身についても言えます。イエスは、イエスの言葉通りに動けないわたしたちを受け入れて下さいますが、わたしたち自身は自分の思った通りに動けない自分を裁いてしまいがちです。自分が期待していたような評価を得られなかったとき、大きな失敗をしてしまったときなど、「わたしはもうダメだ。終わりだ」と勝手に自分で決めつけてしまうことがないでしょうか。そんなとき、わたしたちは自分で自分を裁き、滅びに定めているのです。
 人間の罪深さと弱さを全てをご存じの神の子、イエスがわたしたちをお裁きになることがないのに、自分たち同士で勝手に裁きあったり、自分自身を裁いたりするのは傲慢でしょう。イエスの望みを踏みにじり、自分たち同士で互いを滅ぼしあったり、自分自身を滅ぼしたりする人間の姿は悲劇的とさえ言えます。
 隣人たちについても、自分自身についても、裁いて滅びに定めることは神の望みではありません。ただゆるして神の御元へと立ち返らせること、立ち返ることこそが神の望みなのです。神の望みはわたしたちが一人残らず救われること、イエスと出会って永遠の命に至ることなのです。もし「この人はダメだ」、「自分はもうダメだ」と感じたならば、そんなときこそ隣人のため、自分のために救いを祈りましょう。
※写真の解説…つつじと菜の花畑。京都市にて撮影。