バイブル・エッセイ(182)つながる


つながる
 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ15:1-5)
 この数年、インターネット上のサービスを利用して、たくさんの方たちとつながりを持てるようになりました。
 一番たくさんの方々とつながっているのは、おそらくこのブログでしょう。読んでいただいて、気が向けばいつでもコメントをしていただける関係は、最小限のつながりと言えるかもしれません。twitterになると、ある程度まで相手の姿が見えてくるし、やり取りを交わすのもより簡単になります。さらに、mixiFacebookになると、つながっている人数は少ないですがほとんどの方が実際にもお会いしたことがある方ばかりで、相手のことをよく知った上での会話ができるようになります。その中の一部は、日常生活の中でも友人として御付き合いしている方や同じ修道会のメンバーです。
 つながりの質ということを考えると、どうやら相手の顔が見え、どんな相手かわかって会話をしている人たちほどつながりが強くなるようです。やはり、つながりの基本になるのは、顔と顔を見合わせた人格的な交わりということなのでしょう。一部の友人や修道会の仲間たちとは、もはや自分の一部とも言っていいくらい深くつながっています。
 ぶどうの木であるイエスとつながるときにも、同じことが言えるでしょう。ただ教会のメンバーになっているとか、ときどき聖書を読むというだけでは足りません。メンバーになったり、文章を読んでいるだけでは、相互承認しているとか、ときどきメールをやり取りしているのとあまり変わらないでしょう。
 イエスと深くつながるために必要なのは、聖書の中に生きておられるイエスと人格的に出会うことです。イエスの顔を見、イエスの声を聴き、イエスの温もりに触れる中で、わたしたちとイエスの間の結びつきは深められていきます。ぶどうの木であるイエスこそわたしの命であり、イエスを離れては何もすることができないというほど深くつながっていくため、日々の祈りの中に生まれるイエスとの出会いを何よりも大切にしたいものです。
※写真の解説…六甲山、高山植物園のシャクナゲ