やぎぃの日記(96)「宣教を考える集い」


「宣教を考える集い」
 先週の土曜日、六甲教会の近くにある六甲学院生徒研修所で「宣教を考える集い」が行われた。今回は、福音宣教の具体的な方法ではなく、福音宣教の出発点としてのイエス・キリストとの出会いを深めることに焦点を当てた集いだった。指導したわたし自身、改めて福音宣教とは何かについて深く考えさせられた。
 福音宣教は、イエスと出会って父なる神の愛を受け、喜びと力の霊に満たされることから始まるように思う。エマオへの道でイエスと出会い、燃え上がるほどの信仰に駆り立てられた弟子たちは、自分たちの体験を分かち合うためただちに出発せずにいられなかった。もし復活したキリストと出会い、その口から溢れる命の言葉を受け取るなら、わたしたちにも同じことが起こるはずだ。それこそが、福音宣教の原型だろう。福音宣教は、義務感に駆られてするものではなく、燃え上がる信仰に突き動かされて始まるもなのだ。
 聖霊の炎で燃え上がった心から火の粉のように飛び出す言葉は、人間の思いを越えて人々の心を揺さぶり、人々の心を開く力を持っている。開かれた心に、イエスにおいて父なる神の愛が注がれる。こうして、三位一体の神が、わたしたちを使って福音を宣教されるのだ。 だから、福音宣教は一にも二にも、イエスと出会うことに尽きる。イエスと出会い、父なる神の愛、喜びと力の霊に満たされないならば、何をしても絶対に生きた福音を伝えることができないし、逆にイエスと本当に出会っているならば何をしてもそれが立派な福音宣教になる。福音宣教とは、そのようなものだと思う。
 1975年に公布されたパウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」に記された次の言葉が、わたしたちに福音宣教者のあるべき姿をはっきりと教えてくれる。 
「願わくは、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活があかあかと輝いている福音宣教者、神の国がのべ伝えられ、教会が世界のただ中に建設されるために喜んで命をささげる福音宣教者から福音を受け取りますように。」
 この言葉は、司祭はもちろん、すべての信徒に向けられた言葉だと思う。生きているイエスとの出会いの場であるミサと祈りを何よりも大切にすることで、いつも聖霊の炎であかあかと輝き、近づく全て人の心を燃え上がらせる福音宣教者、言葉と行い、人格、生き方そのものが宣教であるような福音宣教者になっていきたい。
※写真の解説…六甲山高山植物園にて。ウメザキウツギの咲く森。