バイブル・エッセイ(185)主の昇天


主の昇天
 エスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒1:3-9)
 復活したイエスが天に戻っていかれる場面が読まれました。「なぜ、そのまま世の終わりまで地上に留まってくださらなかったのだろう」と考える人もいるかもしれません。どうしてイエスは弟子たちを置いて天に戻ってしまわれたのでしょうか。
 目に見えなくなることによって、初めて見えるようになるものがある、近頃そう感じることがあります。それは、アフリカで数年前に帰天したわたしの友人を思い出すときです。彼女が生きていたとき、わたしが彼女のことを思い出すのは手紙をもらった時やアフリカについてのニュースを聞いたときくらいでした。ところが、彼女が帰天して以来、どういうわけか彼女の存在が生きていた時よりもずっと身近に感じられるのです。彼女の写真を見るにつけ、昔彼女からもらったプレゼントを手に取るにつけ、アフリカでの宣教にかけた彼女の思いや人々への愛が胸に迫ってくるように感じられます。彼女がこの地上を去ることによって、わたしは彼女の思いや愛情を、これまでにないくらいはっきりと、また深く感じられるようになったのです。彼女の姿が見えなくなることによって、目に見えない彼女の心が見えるようになってきた、そんな気がします。
 イエスの昇天も、もしかすると同じような出来事だったのかもしれません。もしイエスがこの地上に留まりつづけたなら、イエスの存在はわたしたちにとってどこか遠くにいる人に過ぎなかったかもしれません。イエスが滞在しているのがエルサレムにせよ、ガリラヤにせよ、日本からははるかかなたの話です。ところが、イエスが昇天したことによって、イエスの存在、イエスの愛はイエスを思うすべての人にとって身近なものになりました。昇天し、神の国に入られたことで、イエスは時間と空間を越えてわたしたちと共にいて下さる方になったのです。
 エスを思うすべての人の心にイエスの愛を届けてくださるのは聖霊です。聖霊の光に照らされるとき、わたしたちの心の目にイエスの愛がはっきりと見えるようになります。聖霊の降臨を切に望みながら、天に戻られるイエスをお見送りいたしましょう。
※写真の解説…六甲山高山植物園のツツジ