バイブル・エッセイ(186)愛の証し


愛の証し
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15-19)
 復活したイエスが、ペトロに三度「わたしを愛しているか」と尋ねるこの場面は、ペトロがローマ兵に捕らわれたイエスを三度「知らない」と言った出来事に対応しています。イエスの問いに対して、ペトロは「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えましたが、イエスを裏切っておいて一体なぜそんなことが言えたのでしょう。イエスは、なぜペトロに教会の指導を委ねたのでしょう。
 おそらく、ペトロが言いたかったのは「あなたを裏切ったことで、わたしがどれだけ後悔し、苦しんだかをあなたはご存知です」ということでしょう。イエスを三度否み、イエスから見つめられたとき、ペトロは激しい後悔に駆られて泣き崩れました。ペトロは、その後もずっとそのことで苦しみ続けただろうと思います。口先だけで立派なことを言いながらすぐにイエスを裏切ってしまった自分を責め、心の中でイエスにわび続けていたに違いありません。
 ここにペトロの愛が現れていると思います。愛が深ければ深いほど、自分の弱さゆえにその愛を裏切ってしまった時の苦しみはひどいものになるでしょう。深い後悔の中で味わった苦しみの中に、ペトロの愛が証しされているのです。ペトロの苦しみを知っていたイエスは、だからこそペトロに教会の指導を委ねたのだと思います。
 わたしたちは、それほどまでにイエスを愛しているでしょうか。日々の生活の中で人を裁いたり、愛の業を怠ったりすることによってイエスの愛を裏切ったとき、わたしたちは後悔の苦しみを味わっているでしょうか。もし「人間なんだから当たり前だ」などと開き直って、何の悲しみも感じていないとすれば、わたしたちの愛は一体どこにあるのでしょう。自分自身に問いかけてみたいと思います。
※写真の解説…赤目四八滝にて。