召命を考える
「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」(マタイ10:7-13)
先日、司祭召命についての若者たちへのアンケートの回答を読ませてもらいました。特に興味深かったのは「こんな司祭には絶対になりたくない」という項目の回答で、そこにはとても鋭い指摘が列挙されていました。例えば、「劣等感が強くてかわいそうな感じの司祭」、「平気で好き嫌いを言うわがままな司祭」、「他の司祭をほめるとその司祭をくさし始める司祭」、「御説教がねちねちして、ただの『説教』になる司祭」、「つまらない冗談で人を傷つける司祭」、「先入観で人を決めつける司祭」などです。
このような司祭に共通しているのは、イエスではなくて自分を若者たちに見せているということでしょう。イエスではなくて自分の姿を人々に見せ、慰めてもらったり誉めてもらったりするために司祭職を生きているのではないか。司祭職は、ちっぽけな自己を実現するための道具なのか。司祭職がそのように惨めなものならば、決してそんな道は選びたくない、若者たちはきっとそう感じているのでしょう。
イエスが今日の福音の中でおっしゃっていることは、わたしも含めてそんな弱さを持っている司祭たちに向けられた言葉のように感じます。何も持たずに旅に出るよう勧めることで、イエスは、「自分自身の力に頼ることなく、すべてを神に委ねなさい」と弟子たちに言っておられます。自分を省みることなく神にすべてを委ねた人、その人を通して見えてくるのはただイエスだけであるような人、そのような人であることが宣教者の条件だとイエスはおっしゃっているのです。
アンケートの中で「こんな司祭に魅力を感じる」という項目に書かれていたことはすべて、司祭にイエスの愛の体現者であることを求める内容でした。もしわたしたち司祭の中にイエスを見るならば、若者たちはわたしたちにではなく、イエスに引き寄せられてこの道を共に歩み始めることでしょう。召命の促進は、小手先の工夫からではなく、司祭が神にすべてを委ねて生きることから始めるべきだと思います。
※写真の解説…神戸市、須磨離宮の花菖蒲。