バイブル・エッセイ(188)聖霊の炎


聖霊の炎
 旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。...彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:1-11)
 燃え上がる炎のような聖霊の語らせる言葉は、言語の壁を越えて全ての人々の心に響くものだということがこの箇所からわかります。そのことを証する現代のエピソードを一つご紹介しましょう。
 ペドロ・アルペ神父様のお名前をご存知でしょうか。戦前に来日されたスペイン人のイエズス会司祭で、イエズス会日本管区の管区長から最後は総会長にまでなられた方です。広島で働いておられるときに原爆を体験され、医師の資格を生かして救護活動にあたったという話でも知られています。非常に優秀な方だったそうですが、そんなアルペ神父様にも一つ弱点がありました。それは、日本語がうまく話せないということでした。
 ところが、アルペ神父様が広島していた聖書講座にはいつもたくさんの人たちが集まり、洗礼を受ける人も多かったそうです。あるとき訝しんだ1人の信者さんがアルペ神父さんから洗礼を受けた方に「あなたはアルペ神父の話していることがわかるのですか」と尋ねました。するとその方は「ぜんぜんわかりません。でも、どういうわけかアルペ神父様の話を聞いていると心が熱くなってくるのです」と答えたそうです。
 アルペ神父様は、おそらく神の愛に満たされる喜びや安らぎ、神に全てを捧げる固い決意といったような、言葉を越えた言葉で人々に語りかけたのでしょう。このような言葉を、聖霊の言葉と呼んでいいと思います。聖霊の言葉は、言語の壁を越えてすべての人の心に届くのです。
 聖霊が炎だとすれば、そのような言葉は火の粉だと言ってもいいかもしれません。神への愛、自己奉献の決意で燃え上がった人の心からは、炎から火の粉が舞いあがるようにして言葉が発せられます。たとえ拙い言葉だったとしても、そのような言葉は聞く人の心に信仰の炎を灯すのに十分な熱を持っています。アルペ神父さんの言葉を聞いた人の心が熱くなったのは、そのためでしょう。
 わたしたちの心にも聖霊によって信仰の炎が燃え上がりますように、わたしたちの口から発せられる言葉が聖霊の火の粉となって人々の心に信仰の火を灯しますようにと、共にお祈りいたしましょう。