やぎぃの日記(97)鋭い質問


鋭い質問
 日曜日のキリスト教入門講座に、ふらりとAさんが現れた。ときどき講座などに姿を現すが、物静かでめったに口を開くことがない人だ。いつもは黙って人の話を聞いている。
 そのAさんが講座の最後で、急に手を挙げた。考えあぐねた挙句、たまらなくなって質問するというような雰囲気だった。Aさんは次のように話した。
「昔から疑問に思っていることがあります。イエスは復活した後で昇天しましたが、なぜ迫害が来るのをわかっていながら地上に弟子たちを置いて自分だけ天国に帰ってしまったのでしょう。『世の終わりまであなたたちと共にいる』とさえ約束していたのに。以前にこの質問をある先生にしたら、そんなことはどうでもいいと一蹴されてしまったのですが、神父様はどう思われますか。」
 これは非常に鋭い質問だと思う。はっとして、しばらく言葉が出なかった。昇天はほとんどの場合、「高挙」とも呼ばれる復活の出来事の一部と考えられ、独立にその意味を問われることがないように思う。しかし、聖書の記述を素直に読むなら、彼のような疑問を感じる人が出てきても当然だろう。はたして、何と答えたものだろう。
 わたしはとっさに、「それはきっと、地上に留まりつづけることで自分が偶像にされるのを恐れたからではないでしょうか」と答えた。ある神学者の、十字架についての論述を思い出したからだ。その神学者は、イエスが十字架上で死んだのは、自分が偶像になるのを避けるためだったと説明している。その思いを貫徹するならば、復活後も長い間地上に留まるわけにはいかないだろう。弟子たちはいつまでもイエスに頼りつづけ、イエスのそばにいるだけで安心して、本物の信仰に成長していくことができなくなる。「見て信じる」子どもの信仰にしがみつき、「見ないで信じる」大人の信仰に成長しできなくなるのだ。イエスは、地上に留まって「教祖」に祀り上げられるのを避けたかったのではないだろうか。
 昇天について、歴史的にどのような事実だったのかを確定することは困難だろう。福音書の中でさえ大きく記述が食い違っているからだ。その事実自体は、Aさんの先生が言ったように、ある意味でどうでもいいのかもしれない。大切なのは、肉体ごと天に挙げられたイエスが、今でも目に見えない霊としてわたしたちと共にいて下さるということだろう。
 わたしがそのように説明すると、Aさんは納得してくれたようだった。いろいろ分かりにくい部分も残るが、とりあえずはこれを答えとして、さらに勉強を続けていきたいと思う。
※写真の解説…京都、貴船神社の杉木立。