正義とは何か?
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ12:14-21)
メシアは異邦人に正義を知らせ、正義を勝利に導くという預言が引用されています。神がメシアを送って実現される正義とは、一体どのようなものなのでしょう。
最近、正義とは何かを問う学問、「正義論」が静かなブームになっています。その1つの立場は、全ての人に当てはまる普遍的な正義が存在するというものです。この立場をとると、他国での明らかな人権侵害などに抗議することが可能になりますが、反面自分たちの勝手な理屈を「絶対的正義だ」と主張して他国を裁いたり、戦争を仕掛けたりする人たちも出てきます。
それに対して、もう一つの立場は、そのような普遍的な正義など存在しないと主張します。正義とは結局のところ、それぞれの共同体の中に存在するものであって、相対的なものにすぎないというのです。この立場をとると、相互の価値観を尊重した対話が可能になりますが、反面、ナチス・ドイツのように明らかに非人道的な主張をする共同体が現れた場合に強く抗議することができません。
キリスト教の主張する正義はどちらなのでしょう?キリスト教は、全人類に当てはまる普遍的な正義である「神の義」が存在することを認めます。しかし同時に、それを完全に知っている人は、イエス・キリストを除いて誰もいないと考えます。普遍的な正義は存在するが、それを完全に知って自分のものにすることはできない、というのがキリスト者の正義論ではないかとわたしは思っています。
キリスト教的な正義は、自分を正当化し、声高に叫んで人を裁くためのものではありません。むしろ謙遜に神の御旨を祈り求める心、何ものも裁かず、人の目には無益と考えられる「傷ついた葦」や「くすぶる灯心」さえ大切に慈しむ心に宿るものなのです。謙虚な心で正義を探し求め、この地上に実現していきましょう。
※写真の解説…六甲山、生田川の上流にて。