バイブル・エッセイ(202)怒りの原因


怒りの原因
 この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:28-35)
 このたとえ話のように、神様から大きな負債をゆるしてもらっていながら、他の人が自分に対して何かいやなことをするとゆるせない。そんな自分に気づくことがたびたびあります。どうしたら「心から兄弟をゆるす」ことができるのか、これはとても大きな課題です。どうしたら自分の悪口を言う人、自由や財産を脅かすような人への怒りを静め、ゆるすことができるのでしょう。
 最近思うのは、怒りには必ず理由があるということです。多くの場合、わたしたちはどうやら、自分が執着しているものを取り上げられそうになったときに怒りを感じるようです。例えば、人からの評判に執着している人は悪口を言われたときに強い怒りを感じます。自由に執着している人は、その自由が束縛されそうになったとき、財産に執着している人は財産を脅かされたときに怒ります。怒りの大きさは、執着が強ければ強いほど大きくなるようです。評判や自由、財産などを自分の一部のように思い、命の次に大切にしている人は、それらが脅かされたときに、まるで自分の命が脅かされたかのような激しい怒りを感じることでしょう。
 怒りから解放されるためには、それらの執着を手放す以外にないと思います。激しい怒りを感じ、相手を絶対にゆるせないと思うようなときには、自分は一体何に執着しているのだろうと考えてはどうでしょうか。その執着を見つけ出し、神以外のものにそれほど強くしがみついている自分に気づけば、自然に怒りはおさまっていくように思います。執着の偏りから解放されたまっすぐな心で起こった出来事を見直し、相手と向かい合うとき、そこにゆるしが生まれることでしょう。
 わたしたちを執着と怒りの牢屋に閉じ込めるのは、主人ではなく、実はわたしたちた自身なのです。神の愛以上に大切なものなど何もないことをしっかりと胸に刻んで、怒りを感じるたびごとに執着を手放し、ゆるしの福音を証していきましょう。
※写真の解説…赤目四十八滝にて。水辺の岩にとまったトンボ。