バイブル・エッセイ(203)存在の祈り


存在の祈り
 兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(一テサロニケ5:4-6/9-11)
 「目を覚ましていなさい」という勧めは、もちろん寝るなという意味ではありません。怠惰や絶望の闇に沈むことなく、いつも聖霊の光の中を歩みなさいということでしょう。そのような闇に沈み込んで、神の存在に目を閉ざしてしまいそうになるたびごとに、神に立ち返って「目を覚ましなさい」ということだと思います。闇が忍び寄ってくるたびに、祈ることでわたしたちは再び聖霊の光に包まれていきます。
 さらにパウロは「目覚めていても、眠っていても、主と共に生きる」と言います。仮に眠っていたとしても、主と共に生きることができるというのです。確かに、闇に飲まれそうになっては光に立ち戻るということを繰り返しているうちに、もはや闇も光も超越した信仰の次元に到達するということがあるように思います。神に全てを委ねきった人にとっては、もはや闇も光もなく、その人の存在そのものが絶えざる祈りになるのです。
 わたしが知っている中では、晩年の吉浦要(かなめ)神父様がそうでした。ブラジル生まれの日系人として日本に宣教に来られ、大学でポルトガル語を教えておられたそうですが、わたしがイエズス会に入った頃はもう引退しておられました。印象に残っているのは、片手に杖、片手にロザリオを持ちながら修道院の中を散歩しておられる神父様の姿です。吉浦神父様は、晩年、寝たきりなり胃瘻を受けておられました。意識もほとんどありませんでしたが、そんな神父様が突然、奇跡のように口を開いて話し始めることがありました。わたしたちが耳元で「めでたし」とささやきかけるときには、神父様は必ず口を開いて「聖寵満ち満てるマリア、主は御身と共にまします…」と聖母の祈りを続けて唱えて下さったのです。もはや、祈りが神父様の存在そのものに溶け込んでいたとしか思えません。晩年の吉浦神父様を見ていると、呼吸の一つ一つが祈りだとさえ感じられました。 
 聖母のとりなしによって、神に全てを委ねて生きた吉浦神父様は、晩年確かに「目覚めていても眠っていても、主と共に生きる」境地に達しておられました。わたしたちも、いつかそのような信仰に達することができるよう、「目を覚まして」祈りつづけたいものです。
※写真の解説…晩年の吉浦要神父様。ロヨラ・ハウスにて。