バイブル・エッセイ(206)時間の頂点


時間の頂点
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」(ルカ6:1-5)
 イエスは、御自身こそ「安息日の主である」とおっしゃいます。1週間の中で最も聖なる時とされる安息日にあって、ご自分こそが最も聖なるものだとおっしゃるのです。つまり、エスこそあらゆる時間の中で最も聖なるものであり、イエスこそ時間の頂点だということです。あらゆる時間は、イエスの愛の中で完成するのです。
 時間の使い方を考えるとき、このことを忘れないようにしたいと思います。わたしたちはつい、限られた時間の中でどれだけたくさんの仕事をこなしたか、たくさんの人と出会ったかなどと考え、たくさんのことをできないと「時間を無駄にしてしまった」と考えがちです。ですが、一番大切なことは、どれだけたくさんのことをしたかではありません。大切なのは、どれだけイエスと出会うことができたか、イエスの愛の中で時間の完成を味わったかなのです。
 聖書を開いて30分もぼんやり過ごすというのは、ちょっと考えると時間の無駄遣いに思えるかもしれません。しかし、その30分の中で一瞬でもイエスと出会えるなら、その一瞬こそ1日の中で一番価値のある時間なのです。友達の愚痴や悩みの長々と聞くのを時間の無駄と感じることもあるかもしれません。しかし、その会話の中で一瞬でも相手の中にイエスの姿を見出すことができるなら、その一瞬に1日の時間の流れが頂点に達するのです。
 すべての時間の流れは、イエスを通って父なる神の大いなる愛の中に流れ込んでいきます。私利私欲や狭い考えで時間をとらえて、その流れをせき止めてしまうことがないようにしたいと思います。
※写真の解説…「最後の清流」と呼ばれる、高知県四万十川の流れ。