バイブル・エッセイ(209)揺るがぬ土台


揺るがぬ土台
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(ルカ6:46-49)
 福音の言葉を聞きながらそれを実践しないなら、その人の信仰には土台がないとイエスはおっしゃいます。ここで土台とは一体何でしょう。わたしたちの信仰は、何の上に建てられるべきなのでしょうか。
 イエスの教えは、神を敬うこと、そして隣人を愛することに尽きるでしょう。神を敬うとは、自分自身の思いを打ち砕き、神の思いに身を委ねて祈ることです。そうやって祈るうちに、わたしたちの心は深く掘り下げられてゆきます。隣人への愛も同じです。自分と違う誰かを愛そうとするとき、わたしたちはやはり心の中にある利己心、プライド、思い込みなどを砕き、心を深く掘り下げてゆくことになります。人を愛するとは、神の前で自分の弱さや限界を認め、神の愛の温もりの中で相手をゆるし、受け入れてゆく営みに他ならないからです。
 このようにしてイエスの教えを日々実践していくうちに、わたしたちは決して揺るがぬ土台の岩に到達します。その岩とは、神へのまったき信頼です。神に自分を委ね、神の愛に満たされて生きる体験を繰り返していく中でわたしたちの信頼は強められ、もはや何ものによっても揺るがない土台の岩となるのです。
 愛の教えを実践しないなら、どうしても自分や自分が持っているものへの信頼が、わたしたちの土台になってしまいがちです。財産、人からの評価、地位、独りよがりな思い込みなどを土台にしている人は、天災や病気、事故などによってそれらを失ったとき、土台ごと流されてしまうでしょう。しかし愛の実践の中でそれらへの執着をすべて手放し、神だけに土台を置いた人の心は、何が起こっても決して揺らぐことがありません。自分や自分が持っているものなどどうでもよく、本当に大切なのは神の愛だけだとわかっているからです。日々の実践の中で心を深く掘り、神への揺るがぬ信頼という土台の岩の上に家を建てたいと思います。
※写真の解説…長野県、小諸城の石垣。