バイブル・エッセイ(212)身を低くして


身を低くして
 あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:1-11)
 ここでパウロイエス・キリストについて語っていることは、キリスト教の歴史の中で一番古く、またすべての教えの根幹になる信仰宣言だと考えられています。ここでパウロが強調しているのは、キリストが神の身分でありながらそれに固執せず、へりくだって人間と同じ者になったということです。このへりくだりの中にこそ、イエス・キリストがもたらした救いがあるというのです。
 なぜ、「へりくだり」がそれほどまでに大切なのでしょうか。それは、人間を神から遠ざけ滅ぼすのか、その正反対の心の動きである思い上がりだからです。思い上がりは、人間の罪の根源であり、原罪そのものだと言ってもいいでしょう。アダムとイブは、人間の身でありながら、神のように善悪を知る者になろうとして果実に手を伸ばしました。神に造られた人間の身でありながら、思い上がって自分自身を神のようにするこの心の傾きこそ、まさに原罪なのです。
 この原罪から人間を救うため、イエスは神の身でありながら、へりくだって自分自身を人間と同じものにされました。人間の途方もない思い上がりを打ち砕き、神のもとに立ち返らせるためには、神が人間になるという途方もないへりくだりが必要だったのです。この究極のへりくだりの中にこそ、わたしたち人間の救いがあります。
 まるで神のように正しく、すべてを知る者であるかのような態度で人を裁き続ける限り、わたしたちは愛し合うことができません。へりくだって自分の弱さや不完全さを認め、互いにゆるしを願うとき、わたしたちの心は一つに結ばれます。そのようにして、わたしたちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしたとき」わたしたちの心は神の大いなる喜びで満たされるのです。そこに救いがあります。
 人間でありながら思い上がり、自分を神のようにみなすわたしに気が付いたならら、すぐに神の身でありながら自分を低くして人間になったイエスを思い出しましょう。そして、へりくだった心で人々との間に愛の交わりを結んでいきましょう。そこに、イエスが与えて下さった救いがあります。
※写真の解説…道端に咲いたヒメジョオン。軽井沢にて。