バイブル・エッセイ(214)教会博士


教会博士
 エス聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(ルカ10)
 先日、記念日が祝われたリジューのテレジアは、1997年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって教会博士に挙げられました。マザー・テレサが帰天する直前の出来事で、その知らせを聞いたマザーがとても喜んでいらしたのではっきりと覚えいます。聖トマスや聖ボナヴェントゥラのように万巻の書を読破し、神学の大論文を書き上げた聖人が教会博士に挙げられるなら当然ですが、そのような意味での学問をほとんど積んでいないリジューのテレジアが教会博士に挙げられる、これは本当に驚くべきことでした。
 この出来事は、神の前での知恵が、人間の知恵とは全く異なることを示しているように思います。人間の知恵とは学識や経験を積むことですが、箴言に「主を畏れることは知恵の始め」とある通り、神の前での知恵とはかえって自分を無にし、ただ神の御旨に従って生きていくことなのです。神の前にへりくだり、すべてにおいて自分の感情や意見、思いではなく神の御旨を優先することができる人、その人こそが真の知恵者なのです。神の知恵は、そのような人柄の中にこそあると言ってもいいでしょう。
 これは本当に喜ぶべきことだと思います。なぜなら、そのような知恵は「幼子のような者」にも手に入れることができるからです。人間の知恵を身に着けるためには大学に行き、たくさんの本を読んで勉強しなければなりませんが、神に全てを委ねて生きる知恵を身につけるためにそんなことをする必要はありません。神の前での知恵は、日々の生活の中の小さなこと、例えばトイレの掃除など人が嫌がるちょっとした仕事を引き受けたり、苦しんでいる人の話に真剣に耳を傾けたり、怒りやいらだちの感情を乗り越えたりすることの中で自然に身についてゆくからです。わたしたちにとって、日々のなんでもない普通の生活こそが神の知恵を学ぶための大学なのです。
 リジューのテレジアは、そのようにして神の前での知恵を身につけて行きました。その知恵が凝縮されたのが、彼女の書き残した「自叙伝」だと言っていいでしょう。わたしたちもこの聖人に倣い、日々の生活の中で神の知恵を身に着けたいものです。謙遜な心でただ神のみにより頼む「幼子のような」生活を祈り求める日々を重ねるうちに、神様はわたしたちにもいつの日か必ず立派な学位をくださることでしょう。
※写真の解説…奥日光、小田代ヶ原にて。