バイブル・エッセイ(215)収穫の取り立て


収穫の取り立て
 ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(マタイ21:33-41)
 ずいぶんと強欲で恩知らずな農夫たちの話です。ぶどう園の主人は神、農夫はユダヤ人たち、そして跡取り息子の僕はイエス・キリストを指していると思われるので、当時のユダヤ人たちはなんてひどいんだと考えて憤慨する人もいるかもしれません。しかしよく読むと、この話にはそれだけで終わらない深みがありそうです。
 近ごろ大阪教区では、行政の谷間に置かれた人々に寄り添う取り組みをもう一度見直し、さらに進めていこうという動きが起こっています。この動きを妨げる要因はいくつかありますが、よく聞かれるのは「そういう人たちは努力しなかったから貧しくなったのだ。努力して幸せを掴んだわたしたちが助けてやる必要はない」という考え方です。このような考え方は、グループとして現れることもありますし、ふとした時にわたしたち1人ひとりの心の中に現れることもあります。
 わたしたちは、自分が努力して今の幸せを手に入れた。だからこの幸せは自分のものだ、と考えがちですが、本当にそうでしょうか。生涯の始めに、神様はわたしたちに健康な体と心、能力や才能を与え、住む場所を整え、守ってくれる家族を準備してくださいました。「ぶどう園を作り、垣をめぐらし、絞り場を掘り、見張りのやぐらを立て」という言葉通り、神様はわたしたちのために全てを準備してくださったのです。わたしたちは、それらを借りた農夫にすぎません。
 ところがそれらを使って幸せを手に入れると、わたしたちはその実りを自分のものだと思い込んでしまいがちです。そんなわたしたちの元に、神様はときどき収穫を取り立てるための僕を送られます。助けを求める友人、孤独な病人、障害を負った仲間、そういった人たちは、すべて神からわたしたちの元に遣わされた取り立ての僕なのかもしれない、わたしはそのように思います。
 もし幸せを独り占めにして分かち合わず、そのために人々が貧しさや孤独の中で死んでいくなら、そのとき起こっていることは今日読まれた福音の物語によく似ています。恩知らずな農夫たちは、実はわたしたち自身なのかもしれないのです。神様から与えられた畑で、神様の恵みの中で収穫した実りを、惜しみなく人々と分かち合うことができればいいですね。  
※写真の解説…収穫の時を迎えた稲田と彼岸花