バイブル・エッセイ(218)同じことをする人


同じことをする人
 すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。(ロマ2:1-5)
 同じことをしている自分を棚に上げて人を裁き、罪に定める人々をパウロは厳しく叱責します。その厳しさは、一人でも多くの人を回心させ、罪の闇から救い出したいというパウロの熱い情熱によるものでしょう。
 パウロの言う通り、わたしたちは自分と同じことをしている人を裁いてしまいがちです。むしろ、自分と同じことをしているからこそゆるせないとさえ言えるかもしれません。例えば、お金に対して強い執着を持っている人は、お金を出し渋って献金箱に少ない金額しか入れない人をゆるすことができず「あの人はなんてケチなんだ」と批判するでしょう。自分がいやいやでも出しているのに、それより少なく入れるなんてゆるせないということです。ケチなのは一体どちらでしょう。
 権力に強い執着を持っている人は、自分に対して権力を振りかざす人をゆるすことができず「なんと傲慢な分からず屋だ」と辛辣に批判します。ですが、権力に対して過度に批判的な人は、自分が権力を握ったときには部下に対してもっとひどい独裁者になるということが往々にしてあります。その人の権力批判は、自由や平等を求める理想によるものではなく、単に自分が権力者になりたいという欲望によるものだったのです。
 人からの評価に強い執着を持っている人は、上手に立ち回って人から評価される人をゆるすことができず「なんて目立ちたがりなんだ」、「あんな奴、実は大したことがない」などと批判します。その人の本心は「本当は自分こそ人から評価されるべき人間なんだ。なのに、なんであいつが」ということです。結局のところ、二人とも同じ穴のムジナなのです。
 このように、わたしたちは自分が執着しているものに、同じように執着している人をゆるすことができません。自分と同じ弱さを持っている人だからこそ、ゆるすことができないのです。「このようなことをなすものを裁きながら、自分でも同じことをしている者よ」というパウロの言葉を深く胸に刻み、誰かをゆるせないときには「わたしも同じことをしていないだろうか」と自分に問いかけたいものです。
※写真の解説…夕暮れ時の長崎港。イエズス会立山黙想の家より。