バイブル・エッセイ(222)生きているのは誰か


生きているのは誰か
 神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲らしめを受けたように見えても、不滅への大いなる希望が彼らにはある。わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。(知恵の書3:1-6,9)
 『ミッション』という映画を御存じでしょうか。1986年に公開された古い映画ですが、主人公がイエズス会員ということもあって私たちは皆、修練時代にこの映画を観ます。
 映画の舞台は18世紀の南米、イグアスの滝周辺です。当時、その辺りではヨーロッパから来た奴隷商人たちがインディオを駆り集め、ヨーロッパに売り飛ばして富を築いていました。そんな中にイエズス会員たちがやってきます。インディオへの宣教を志した彼らは、村を作り、インディオを奴隷商人から守ろうとしました。腹を立てた奴隷商人たちはイエズス会員の所業をヨーロッパの宮廷に訴え、その結果、教皇特使が派遣されてきます。善良な特使はインディオの置かれた状況に胸を痛めますが、ヨーロッパの教会を守るため、村を閉鎖する命令を下します。しかし、イエズス会員たちはこの命令を受け入れず、奴隷商人たちが差し向けた軍隊と戦って全員死ぬという話です。
 この映画の最後で、特使がこう述懐します。「こうして彼らは死んでいった。しかし、本当に死んだのはわたしたちであって、生きているのは彼らなのだ。」この言葉に、キリスト教の死生観がとてもよく現れているとわたしは思います。キリスト教徒にとって、本当の意味で生きるとはイエスの真理を生き抜くこと、苦しんでいる人々と共にとどまって神の愛を貫くことに他ならないのです。
 奴隷商人たちはイエズス会員たちとの争いに武力で勝利し、欲望を満たしましたが、そのために真理から遠く離れ、魂は死んでしまいました。教皇特使は、真理に対して大きな妥協をしたことで、魂を死なせてしまったのです。わたしたちも、日常生活の中で同じようなことをしていないでしょうか。人と争って勝ったところで、そのことで心の平安や信仰の喜びを失ってしまうなら何の意味があるでしょう。妥協を重ねて生活を守ったとしても、それによって魂が損なわれてしまうなら、なんの利益があるのでしょうか。一番大切なのは、神から与えられた命を、イエスと共に生き抜くことなのです。
 ただ生きていても生きていることにはならないし、死んだとしても死んだことにはならない。それがキリスト教の死生観だと思います。折りにふれ「わたしは今、本当に生きているだろうか」と自分に問いたいと思います。
※写真の解説…秋の日光、華厳の滝。2006年11月1日撮影。