バイブル・エッセイ(223)信仰の輝き


信仰の輝き
 「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)
 なぜ、「賢いおとめ」たちはおっとりした「愚かなおとめ」たちに油を分けてあげなかったのでしょう。意地悪をしたのでしょうか。そうではありません。信仰のともし火を輝かせるための油は、初めから分けられるようなものではなかったのだとわたしは思います。
 心に信仰のともし火が燃えている人からは、その光が全身から輝き出ます。わたしが近ごろ最もまばゆい光を感じたのは、東北の被災地である老婦人と出会ったときでした。以前にもご紹介した話ですが、そのご婦人は津波で家を流され、すべてを失って仮設住宅で暮らしています。玄関のドアを開けて出てこられたときから、わたしは彼女の笑顔に魅了されてしまいました。心の底から湧き上がる、幸せで幸せで仕方がないというような笑顔だったからです。何の偽りもないその笑顔からは、出会う全ての人の心を照らし、温めずにいないほどのまばゆい光が輝いていました。
 仮設住宅の何もない部屋で、机の上に一冊置かれた聖書を手に取り「わたしにはこれさえあれば大丈夫なんですよ」と彼女がにっこりほほ笑んだとき、わたしはその光がどこから来るものなのかようやく悟りました。彼女の笑顔の輝きは、すべてを取り上げられても御言葉さえあればわたしには十分と心の底から思える謙遜さ、そして神の御旨にすべてを委ねる信頼によるものだったのです。
 彼女の笑顔から輝いた光こそ信仰のともし火の光であり、そのともし火を燃やす油は神の前での心からの謙遜と、神への全き委ねでした。もし油がそのようなものであるならば、それは長い年月をかけてわたしたち自身が心に蓄えるより以外ありません。誰にも分けてもらうことはできないのです。
 花婿が夜やって来たように、イエスも闇の中からわたしたちの元にやって来られます。エスをお迎えする前に訪れる災難や病苦、孤独などの闇の中で迷子になってしまわぬよう、どんな時でも心のともしびを赤々と輝かせてイエスをお迎えできるよう、日々、謙遜と信頼の油を心に蓄えてゆきましょう。
※写真の解説…木漏れ日を浴びて輝くモミジの落ち葉。2009年11月、東福寺にて。