バイブル・エッセイ(229)柔和で謙遜な者


柔和で謙遜な者
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
 柔和で謙遜な者であるわたしに学びなさいと、イエスは言われます。そうすれば、安らぎが得られるというのです。どうやら柔和さと謙遜さの中に、救いに至る大事な鍵が隠されているようです。
 例えば、こういうことかもしれません。今はちょうど学期末試験のシーズンですが、勉強した結果、試験の成績が10点上がったとしましょう。ある学生は「なんで10点しか上がらなかったんだ。わたしはダメだ」と考えますが、ある学生は「こんなわたしでも10点上げることができた。次回もがんばろう」と考えます。この二人の違いがどこから生まれるのかと言えば、ひとえに心の謙遜さにかかっていると思います。「自分はもっといい成績がとれるはずの人間なのに」という傲慢な思いが心にあれば、10点では満足できず、自分の思った通りにならない自分を責めるこになります。しかし、「自分はそれほど大した人間ではない」という謙遜な思いが心にあると、自分の思った以上にやれた自分をほめられるのです。
 これを神の前での謙遜さと考えると、人生のほとんどすべてのことに当てはまるように思います。たとえばいま働いている会社について「なぜこんな会社にしか入れなかったんだ」と考える人もいれば、「こんな会社に入れてよかったな」と考える人もいるでしょう。前者の心には「もっと大企業に入れたはずなのに」という傲慢があり、後者の心には「神のでとるに足りないわたしにも、これだけの仕事が与えられた」という謙遜さがあります。専業主婦としての生活に満足できない人や、自分の入った学校に満足できない人にも同じようなことが言えるでしょう。自分の人生を振り返ってこれまでに成し遂げてきたこと、人々から与えられた評価について思いめぐらすときも同じことが起こると思います。
 自分はもっと大きなことができるはずという思いが、重荷となって私たちにのしかかります。わたしたちが傲慢な思いにしがみついてる限り、イエスでさえその重荷を取り去ることはできないでしょう。イエスの前で自分の小ささを学び、謙遜な心になったとき、その重荷は取り除けられます。柔和さと謙遜さの中にこそ、救いに至る鍵が隠されているのです。
※写真の解説…庭に積もったイチョウの落ち葉。2009年、京都にて。